『裏横浜』(ちくま新書)。なんとも刺激的なタイトルである。「駅裏」というような言い方で、町の陰のエリアを指す表現は日本全国でかなり一般的に使われてきた。ある程度の規模の都市では、駅の正面側に中心商店街や官公庁が立地し、裏側にはいわく言い難い業種の店や怪しげな旅館などが立ち並ぶのは地理学の常識であり、そうした光景は見慣れたものだからだ。
だが、さすがに「裏東京」とか「裏大阪」という表現は避けられてきた。それは「差別」と密接な関係にあるからだ。その代わり、地元の人にしか分からない隠微で微妙な言い回しで、「裏」を指し示す行為は行われてきた。
だから、「裏横浜」というタイトルを付けた著者と版元の勇気には敬意を表したい。著者の八木澤高明さんは、1972年横浜市生まれ。ノンフィクションライター。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランスに。『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で第19回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『黄金町マリア 横浜黄金町路上の娼婦たち』(亜紀書房)、『花電車芸人』『娼婦たちは見た』(いずれも角川新書)、『青線 売春の記憶を刻む旅』(集英社文庫)、『コロナと風俗嬢』(草思社)などがある。
本書の構成は以下の通り。
第1章 横浜スタジアムの足元 第2章 海上の楼閣 山下公園、みなとみらい 第3章 消えた大陸の空気 中華街 第4章 日の当たらない人の居場所 黄金町 第5章 デラシネのゆりかご 寿町 第6章 世界との架け橋 鶴見 第7章 高低が織りなす風景 山手、元町、その周縁 第8章 夜の街に吸い寄せられる 伊勢佐木町
つい最近まで堂々と売春街が存在した黄金町(神奈川県警の尽力により消滅したが)とか日本三大ドヤ街のひとつ寿町(ちなみにもう二つは東京の山谷と大阪の釜ヶ崎)が入っているのは常識として、一見明るい横浜を代表するような横浜スタジアムとか山下公園、みなとみらい、山手や元町までが出てくるのはどうしたことか?
横浜と言えば、向日的なイメージを持ち、デートスポットしか知らない人には驚きのディープな近現代史が横浜のそこここにあるというのだ。
たとえば、横浜スタジアムのルーツ。江戸時代に新田開発が行われるまで、横浜は釣鐘型の入り江だった。スタジアム周辺は埋め立てられたものの沼沢地だったが、江戸時代後期に日米和親条約が結ばれ、横浜が1859年(安政6)に開港されると、遊郭になったという。
港崎遊郭と呼ばれ、横浜公園にはそれを物語る遺物が残されているそうだ。横浜スタジアムのライトスタンド入口からほど近い場所にある日本庭園だ。庭園の築山には、遊郭に置かれていた石灯籠がひとつだけ置かれている。「岩亀楼」の文字が刻まれており、市内の寺に保管されていたのが、日本庭園ができた時に寄贈されたという。
岩亀楼とは遊郭にあった店の屋号で、日本人の客だけでなく、外国人も受け入れていた店だった。外国人を相手にする遊女は「らしゃめん」と呼ばれた。1866年(慶応2)、遊郭近くの豚肉料理屋が火元となった火事が発生し、遊郭は全焼した。その後遊郭はこの場所に再建されず、クリケット場、そして野球場となった歴史を紹介している。
横浜で生まれ育った八木澤さんでなければ書けないことが出てくる。小学生の頃、現在の横浜DeNAベイスターズの前身である大洋ホエールズの応援に横浜スタジアムに行くと、チケットを転売するダフ屋をよく見かけたこと、中学生の頃、赤レンガ倉庫のある海岸に行くと、海面には終日油の膜が張り、猫や犬の死体が流れてきて、嗅いだこともないような独特の異臭がしたこと、今は観光地になったが、お世辞にも治安がいい場所ではなかった、と書いている。
写真週刊誌のカメラマンとなった20代後半。かつて巨大な売春街だった黄金町の取材のため、周辺を歩き回った。タイ人娼婦と知り合いになり、部屋を訪ねたとも。
コロナ禍前まで観光客でにぎわった中華街についても、まったく別の貌があったという。「横浜が米軍に占領された1945年からベトナム戦争が終結する70年代まで、中華街は売春と麻薬の巣窟だったという。裏通りには米兵相手の連れ出しバーが軒を連ね、その数は中華料理店の数より多かった」。
今は「浄化」され、きれいになった街。八木澤さんが幼い頃見た、「港町横浜はすでに死んだと思う」と書いている。そして新たな横浜が生まれ、魅力的な街であって欲しい、と結んでいる。
「裏」の痕跡が「表」の街の表情をより輝かせるのかもしれないと思った。たとえ、その歴史を知らなくても。
BOOKウォッチでは、関連で『ルポ 禁断の日本地図』(宝島社)、『横浜防火帯建築を読み解く』(花伝社 発行、共栄書房 発売)、『鉄道路線誕生秘話』(交通新聞社新書)、『廃線探訪入門』(天夢人 発行、山と渓谷社 発売)などを紹介済みだ。
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