「男は世界的な写真家 女は梨園の妻 真実を語ることは、これまでずっと封印してきました――」
林真理子さんの取材に基づくフィクション『奇跡』(講談社)が話題だ。本書はいくつかの点で異例である。
実在の人物のいわゆる「不倫」をテーマに、当事者ふたりを「実名」で書いているのだ。「出版まで絶対に秘密」にしなければならなかったため、連載をまとめるのではなく、林さんにとって38年ぶりとなる「書き下ろし」の形をとっている。
「本来であれば、決して世に出ることがなかったはずの物語を、私はいま、綴ろうとしている。(中略)作家の私は博子の人生に興味を持たずにはいられなかった。なぜなら彼女ほど激しい愛を貫いた人に、私は初めて出会ったからだ」
男は、パリを拠点に活躍した世界的な写真家の田原桂一氏(1951~2017)。女は、関西出身の名門の家柄「近江屋」の「清十郎」(実名とは異なる)と結婚し、梨園の妻となった博子。
「田原桂一(けいいち)は生前、博子にこう何度も言ったという。『僕たちは出会ってしまったんだ』」
著者と博子は幼稚園の「ママ友」で、旧知の仲だった。博子は著者にさまざまな過去を語り、「私と彼とのことは、いつか何かの形で残したい」と言っていた。同時に、「舅、姑に迷惑をかけられない。息子の立場もある」とも。
ところが、コロナ禍で先が見えない状況になり、博子は「私たちのように愛し合った男と女のことを、やはり真理子さんに書き残してもらいたいんです」と言った。
梨園の妻だった女性が「道ならぬ恋」のいきさつを語れば、どんな騒ぎになるかは目に見えている。しかし、博子はぶれなかった。著者と博子、そこに編集者2名が加わり、秘密のプロジェクトが始まった。
「この本を読み終えたら、誰しもが二人は結ばれて当然と感じるに違いない。『不倫』という言葉を寄せつけないほど二人は正しく高潔であった。これはまさしく『奇跡』なのである。私は博子から託された"奇跡の物語"をこれから綴っていこうと思う」
1997年の祇園宵山(ぎおんよいやま)の夜、田原と博子は出会った。宵山を見る宴会に出席していたのだ。そして2003年、田原と博子は京都の教会で再会する。
そのとき田原は52歳、博子は33歳。博子は梨園の若奥さんで、3年前に跡継ぎの男児「清之助」(実名とは異なる)を産んでいた。博子は若い頃から日記をつけていて、再会の日をこう書いている。
「『博子ちゃんだよね』『田原さんですよね』ただそれだけの会話の中で"何か"を感じてしまった。(中略)この再会によって何が起こる訳でもない。起きてはいけない。今はそれしかわからない」
これ以上のことがあってはいけないと、ブレーキをかけようとした。しかし、"何か"を感じたのは博子だけではなかった。惹かれ合うふたりは、やがて「始まってしまった」のである。
「全てがひとつになった時は『どうして、こんなに』と吐息のように囁いていた。互いが同じ感情同じ波で感じ合えること。これは奇跡かもしれないと思う程の感動だった」
博子は田原と知り合うまで、自分の生活や人生に不足を感じたことはなく、「近江屋」のためにすべてを尽くしてきた。ただ、夫の女性問題の後始末をすることもあったようで、「寂しく満ちたりない思い」を抱えていた。
「近江屋」の若奥さんとして頑張る一方、田原がパリから帰国するのを待つだけの日々がつらく、息子の前で泣いてしまうことも。家族には一切秘密にしていたのかと思ったが、博子は田原との逢瀬に、たびたび息子を連れていったという。
「息子は私の分身ですから。好きな人と会う時でも、家を出ていく時も私はいつも息子と一緒でした。それが自然だったんです」
何から何まで現実離れしていて、もし自分が博子だったら......と想像しようとも思わなかった。ただ、人生を思い切り方向転換してみせた博子の生き方は、うらやましく感じた。博子の日記にこんな一節がある。
「世間から見たら、絵に描いたような理想の役者の妻、嫁、母をしていた私が子どもを連れて出るなんて、どんな理由だろうとあってはならないことなのだ。しかし私はこのありえない道を選ぶことが、私にとっての正解としか思えなかった」
本書は、いかにも林さんらしい不倫ものの小説とは、読み味が違うかもしれない。林さんが「感動と興奮を保ったまま、いっきに筆を走らせ」た、異例尽くしの1冊。想いを貫いた男と女の"奇跡の物語"の結末は――。
■林真理子さんプロフィール
1954年山梨県生まれ。日本大学芸術学部卒。82年エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』が大ベストセラーに。86年「最終便に間に合えば/京都まで」で第94回直木賞を受賞。95年『白蓮れんれん』で第8回柴田錬三郎賞、98年『みんなの秘密』で第32回吉川英治文学賞、2013年『アスクレピオスの愛人』で第20回島清恋愛文学賞、20年第68回菊池寛賞を受賞。18年には紫綬褒章を受章した。小説のみならず、「週刊文春」や「an・an」の長期連載エッセイでも変わらぬ人気を誇っている。
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