水銀を飲んでも体に異常が出ない「水飲み」という一族がいることが、冒頭綴られる。伝奇的な物語かと思ったら、北海道東部に実在した水銀鉱山の歴史を下敷きに描かれた堅牢な小説だった。本書『竜血の山』(中央公論新社)は、今年を代表するエンタテインメント小説になることは間違いない。群を抜く面白さに興奮した。
昭和13年、鉱山技師の那須野寿一は、北海道東部の山奥で、日本では例のない自然水銀が採れる水溜まりを発見する。その直後、少年アシヤと遭遇する。人家はないはずだったが、人が近くに住んでいるのか? さらに地図にはない集落を発見する。フレシラ(赤い岩)という名の集落の人々は、辰砂(しんしゃ)、すなわち硫化水銀を密かに売って生業にしていた。
集落では開発を拒む年長者が多かったが、外部との接触が多かった薊多蔓(アザミタツル)は水銀を飲んでみせ、耐性があることを那須野に証明する。そして自分たちを高給で雇うことを条件に、水銀鉱山の開発に協力する。
タツルとその息子のトクサ、さらにタツルの家に引き取られていたアシヤがまず雇われ、しだいに集落の人間も働くようになる。「水飲み」の一族は水銀に耐性があり、土地を放棄したことから、他の鉱夫の倍の給金をもらったが、陰では「化け物」とか「妖怪」と呼ばれ、差別されるようになっていた。
フレシラの水銀埋蔵量は推定2000トン。過去に例がない巨大な水銀鉱床だ。水銀は雷管の火薬や艦底塗料の原料として用いられるため、軍需物資として価値が高い。昭和13年に始まった物語は、戦前の軍需景気、戦後の不況、さらに朝鮮戦争による特需、輸入自由化による不振と、現実をなぞる形で昭和43年の最終章まで語られる。
主人公のアシヤはトクサの事故死をきっかけに、「水飲み」の一族に長時間労働を強いる会社に不信感を持つようになる。戦中の昭和18年、「坑道で死ぬのを恐れるな。フレシラ鉱業所は名誉ある皇国の軍需工場だ。死んだら尊い犠牲になれるから誇りと思え。死ぬ気で働け」という上司。アシヤたちは会社への恨みを募らせ、復讐計画を立てる。
那須野を人質に労働環境の改善、トクサの死に対する謝罪を求め火薬を使い決起するが、那須野の息子で金属化学を学ぶ源一に制止され、失敗する。会社は事件の表面化を恐れるとともに、アシヤの労働力惜しさに、不問にした。
その後、新しい鉱脈を発見し、「不死身の鉱夫」と呼ばれるようになったアシヤは、町場で育った臨時職員の光子と結婚し、男児が誕生する。しかし、「水飲み」の一族に生まれ、アシヤとの間に子供をつくり、「水飲み」の血を残そうと渇望するミナエの計略により、もう一つの家庭を持つことになる。
戦後、労働運動の高揚とともに、かつがれて労働組合の委員長になったアシヤは、二つの家庭の間で引き裂かれ、母親が違う3人の子供をつくることになる。家庭は崩壊の危機に立ち、アシヤにもはやかつての神話力は感じられない。
戦後のもう一人の主人公は源一だ。技師長として鉱山で働き、水銀への愛を語る。山の命運を背負うのは源一しかいなかった。昭和34年、年間200トンを産出するフレシラは、東洋一の水銀鉱山になっていた。
水銀が物語のキーワードだ。「水銀を飲む」という表現から、ある過酷な現実の歴史に思い当たり、戦慄する人もいるだろう。魚貝などに蓄積された有機水銀を摂取したことによる水俣病のことだ。本作も思わぬところで「水俣」と通底し、凄惨な悲劇、犯罪小説へと収斂していく。
末尾の資料から北海道東部にあったイトムカ鉱山を参考にしたことがわかる。イトムカ鉱山は北海道網走支庁留辺蘂町(るべしべちょう/現・北見市留辺蘂町)にあった水銀鉱山で、最盛期の生産量は日本一だった。イトムカとはアイヌ語で「光輝く水」のことだ。
作中で、フレシラ鉱山は辰砂を採掘しているが、イトムカ鉱山は主要鉱石が自然水銀という世界的にも珍しい鉱山だった。無機水銀中毒を起こす恐れのある水銀蒸気が発生したため防毒マスクを着用して採掘したという。それでも無機水銀中毒にかかる人も多かったというから、「水飲み」のような人がいたら、と著者は夢想したかもしれない。
水俣病問題を発端とする公害問題で、ソーダ工業での水銀使用が中止となり、昭和49年に採掘を中止した。鉱山として使命を終えたが、日本で唯一の水銀含有廃棄物の処理、リサイクル工場として今も操業を続けている。また、日本で唯一、水銀地金を生産している精錬所でもある。
アシヤの子孫もまた、同様の事業所で働いていると冒頭で設定されている。鉱山は一般に資源を収奪し尽くせば、後は廃墟となる。「後は野となれ山となれ」というわけだ。日本全国にそうした廃墟はいくつもある。モデルとなったイトムカ鉱山の希少性、特殊性ゆえにフレシラ鉱山はまだ命脈を保っているのかもしれない。そこに一つの救いを評者は感じた。
著者の岩井圭也さんは1987年生まれ。作家。北大大学院農学院修了。「永遠についての証明」で野性時代フロンティア文学賞を受賞しデビュー。著書に『水よ踊れ』『夏の陰』など。
BOOKウォッチでは、岩井さんの『文身』(祥伝社)を紹介済みだ。私小説とは何かを問うエンタテインメント小説だ。
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