「あなたには、やりなおしたい過去がありますか?」
全英1位。世界43カ国で刊行。BTSメンバーも愛読する世界的ベストセラー小説『ミッドナイト・ライブラリー』(マット・ヘイグ 著)。本作の日本語翻訳版(浅倉 卓弥 訳)が、ハーパーコリンズ・ジャパンより2月9日に刊行される。
ぜひ1人でも多くの人に読んでほしい! そんな思いを込めて、BOOKウォッチでは本作の【試し読み】を連載(全6回)でお届けする。
本作の書評「BTSも愛読する世界的ベストセラー。『もしもあの時......』と後悔している人へ。」はこちら。
■ここまでのあらすじ
ノーラはその日人生のどん底にいた。飼っていた猫を亡くし、仕事をクビになり、いくら悲しくても話を聞いてくれる家族も友人もいない。頭をめぐるのは後悔ばかり。
「私がもっといい飼い主だったら」「両親にも亡くなる前にもっと親孝行ができていたら」「恋人と別れなければよかった」「故郷に戻らなければよかった」
生きている意味などもうないと、ノーラは衝動的に自らの命を絶とうとする。
だが目覚めたとき、目の前には不思議な図書館が佇んでいた――。
ノーラが35年間の人生で感じてきたすべての後悔が、余さず記された『後悔の書』。本からあふれた後悔の激しさに悶えながらも、なんとか閉じ、ほっと息をついた。以下、その続きの場面から、【試し読み】をお楽しみいただきたい。
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すべての人生が今始まる
「よろしい?」
エルム夫人は腕を組んでいた。見た目こそノーラの知る司書と瓜二(うりふた)つだが、本物の夫人よりやや無愛想なようだ。夫人であって夫人ではないということか。ややこしい。
「何が〝よろしい〟よ」
まだぜいぜい言いながらノーラは吐き捨てた。後悔の痛みにもう襲われてはいないことにほっとしていた。
「どの後悔が一番目につきました? やりなおしたいと思ったのはどの選択? 試してみたいと思ったのはどの人生?」
夫人は確かにそう言った。〝試して〟という言葉を使った。まるで、ここが服屋か何かで、人生もTシャツのように好き勝手に選べばいい、とでも言いたげだ。むごいゲームだ。
「絞め殺されるかと思ったわよ。で、いったい何が言いたいの?」
そこで顔を上げたノーラは、その時初めて図書館の明かりの様子に気がついた。裸電球がいくつか、天井に直接取りつけられたワイヤーからぶら下がって、ぽつりぽつりと並んでいた。明るい灰色のごく普通の天井だったが、ただしこちらも、床と同様どんな壁にも届いてはいないようだった。この図書館では、天井もやはり、果てしなく続いているのだろう。
「あなたの元の人生は今にも終わりかけています。その可能性は非常に高い。あなたが死を望んだからです。ほどなくその望みも叶うのでしょう。でもそうなると今度は、あなたには行くべき場所が必要になる。着地点、さもなければ別の人生。そういうものです。だからあなたは必死で考えなくてはなりません。この図書館が〝真夜中の図書館〟と呼ばれるのは、あらゆる新しい人生が取り揃えられているからです。今は真夜中。何もかもが始まる時間で、これらの未来すべての始点です。あなたの本とはつまりはそういうことですよ。ひょっとしてあなたが生きていたかもしれない人生が真夜中の直後から始まり、その先へと続いている」
「そこには過去なんて存在しないってこと?」
「そうではありません。人生とはやはり、様々な積み重ねの結果ですから。この真夜中以前の過去を書いた本だってありますし、実を言えば、私はそのすべてを知っています。でも、それらは今あなたが読むべきものではない」
「なら、そのそれぞれの人生というのはいつ終わるの?」
「様々ですね。真夜中からきっかり一秒後ということもありえるでしょうし、一時間後ということも、数日か数ヶ月、あるいはそれ以上ということだって。もし心の底から生きたいという人生が見つかったなら、あなたはそこにとどまって、寿命の尽きるまでその人生を生きるのかもしれません。生きたいと懸命に願えばなんの心配もいりませんよ。まるで生まれてからずっと過ごしてきたかのように、その新たな人生にとどまり続けることができるでしょう。ある世界線のあなたは、ずっとそこで生きていたんですから、当然です。つまりこれらの本は、いわば返却不要なんです。貸し出しというよりはむしろ贈り物ですね。自分はこの人生を望んでいると、本当に強く、心の底からあなたが思えたその時には、この真夜中の図書館のことを含めた今あなたの頭の中にある一切が、曖昧でつかみどころのない記憶となり、やがてはまるで存在しなかったかのように消え去るでしょう」
頭上の明かりの一つが瞬いた。少しだけ脅迫めいた声になりながら夫人が続けた。
「ただ一つ危険があるとしたら、それは、あなたがここに戻っている間の時間です。人生と人生の狭間、ということになりますか。仮にそこであなたが、新しく生きたい人生を探す気持ちをすっかり失ってしまったら、その時はただちに、そもそものあなたが生きていた元の人生にも影響が出ます。そうなれば、この図書館の崩壊にも繋がりかねない。あなたは永遠に消えてなくなる。死んでしまう。当然こうした本に触れることも二度とできない」
「それこそ望むところだわ。私は死にたかったのよ。死のうと思ったから死にかけてる。でなければ薬をあんなに飲んだりしない。私、死にたいのよ」
「きっとそうなのでしょうね。でも、本当はそうでもないのかもしれませんよ? どうしてだか、あなたはまだここにいるのですから」
ノーラはなんとか状況を理解しようと試みた。
「なら訊くけど、私はどうなったらこの図書館に戻ってくるの? あるいは行った先が、ようやく逃げ出せたと思ったあの生活よりさらにひどい人生だったら、その時はどうなるの?」
「その辺りは微妙ですね。でも、その人生にあなたがとことん失望してしまえば、すぐここに戻ってきますよ。そういう気持ちがじわじわ迫(せ)り上がってくる場合もあるでしょうし、一気に押し寄せてくることもあるでしょう。そうならないのだとしたら、その人生にとどまることがきっとあなたの幸せなのでしょう。ただしこればかりは幸せの定義にもよりますね。さあ、どうしたってこれ以上単純にはならないのよ。そろそろ行きましょう。何か一つ〝もし違う選択をしていたら〟と思う内容をお選びなさい。私が相応(ふさわ)しい本を探してきます。つまり、相応しい人生を、ということですが」
ノーラは石の床の上で閉じられたままの『後悔の書』を改めて見下ろした。脳裏には、古風で小ぢんまりしたパブを田舎でやりたいのだという夢を、ダンと夜中まで語り合った記憶が甦っていた。相手の熱に浮かされて、それが自分自身の夢でもあるかのように思えたものだ。
「ダンの元を去らなければよかった、と思う。まだつき合っていられたらよかった。あの人のそばにいて、夢を実現しようと一緒に頑張らなかったことを悔やんでる。私たちがまだ二人でいる人生も、ここにはあるの?」
「もちろんですとも」
エルム夫人がそう言い終わるか終わらないかのうちに、本がまた動き出していた。けれども今回は、ウェディングマーチみたいなゆったりしたテンポではなかった。それどころか、見ているうちに速度を増し、最後にはとうとう一冊一冊を見分けることもできなくなった。ただ目の前を緑色の流れが飛び去っていた。
そして、動き始めたのと同じほど唐突に、それが止まった。
膝を折って屈み込んだエルム夫人が、左側の一番下の棚から一冊を取り出した。どちらかといえば暗めの色の表紙だった。夫人がそれをノーラに手渡す。見た目はほとんど同じ大きさなのに、こちらは『後悔の書』と比べると、驚くほど軽かった。背表紙にはやはり何も書かれてはいない。けれど表紙に浅い箔が押されていて『私の人生』と読み取れた。
「だけどこれ、私のなんかじゃ──」
「いいえノーラ、ここにあるのは全部あなたの人生よ」
「どうすればいいの?」
「本を開いて最初のページをめくるの」
その通りにすると、夫人が頷いた。そして、一音一音を噛(か)み砕くようにして言った。
「では、ノーラ・シード、最初の行からお読みなさい」
視線を下ろし、ノーラは目を走らせた。
パブを出た彼女は、冷たい夜気の中へと──
パブですって? そう訝るだけの時間しかなかった。直後にはもうそれは起きていた。文字がすごい勢いで渦を巻き始め、たちまち判読不能になった。むしろノーラの方が宙に溶け出したかのようにも思われた。
気づかぬうちに手が本から離れていた。もうノーラは本を読んではいなかった。そればかりか、本も図書館も、何もかもが周囲から消え去った。
■マット・ヘイグさんプロフィール
1975年イギリスのシェフィールド生まれ。大学卒業後、マーケティング会社を経営するなど様々な職を経たのちに作家業に専念。フィクション・ノンフィクションを問わず多岐にわたるジャンルの作品を執筆し、その多くがベストセラーとなっている。"Shadow Forest"でネスレ子どもの本賞金賞を受賞。3作品がカーネギー賞候補作に挙げられている。本書"The Midnight Library"は世界43カ国で刊行され、全英1位を獲得。各国でロングセラーに。2020年Goodreads Choice Awardsフィクション部門を受賞した。
■浅倉卓弥さんプロフィール
1966年札幌生まれ。作家・翻訳家。東京大学文学部卒業。2002年『四日間の奇蹟』で第1回『このミステリーがすごい!』大賞(金賞)を受賞。同作は映画化もされ、ミリオンセラーに。他の著作に『黄蝶舞う』(PHP研究所)など、訳書にウォリッツァー『天才作家の妻』(ハーパーコリンズ・ジャパン)ほか多数。
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