地図や鉄道、近現代史をテーマにした文筆家、竹内正浩さんの『妙な線路大研究 東京篇』(実業之日本社)が版を重ねている。当然あるいは必然と思い込んでいた身近な鉄道の経路が、実はさまざまな試行や利害の衝突の結果、敷設されていたことを明らかにした本だ。本書『妙な線路大研究 首都圏篇』(同)は、1都6県に範囲を広げた続編である。
「第1章 クネクネの線路には歴史がある」では、品川~大崎の急カーブの理由、両毛線がなぜジグザグの路線なのか、などを取り上げている。鉄道にとってカーブは少ないほうがいいし、カーブの半径は大きいほうがいい。それでも急曲線やS字カーブになったのは、それなりの理由があるのだ。
山手線は環状運転しているが、最初から環状運転していたわけではない。少しずつ線路をつなぎ合わせ、最初の鉄道開業から半世紀以上経った大正14年(1925)にやっと環状運転が実現した。
山手線の西側は、開業当時、私鉄の日本鉄道会社の品川線だった。官設鉄道への連絡を主目的とした品川線はなぜわざわざ品川で折り返すような線形にしたのか。「日本鉄道が新橋乗り入れを優先したと考えれば、合点がいく」と推理している。
当時の列車の速度は時速30キロ程度といわれており、品川~大崎間の曲線に関して、問題視された形跡もないという。
品川を出発した山手線の外回り電車は、最小で半径350メートルの曲線を通過するが、都心に乗り入れる私鉄各線の曲線に比べれば、むしろ穏やかな方だという。西武新宿線の高田馬場付近の曲線は半径158メートル。他の私鉄の例も紹介しているが、ずっと穏やかだ。
竹内さんは目黒川の谷を利用した現行の曲線以外にルートはないか検討している。すると1カ所だけあった。渋谷川~古川の谷を通って、田町駅の北側で官設鉄道線に乗り入れる経路だ。しかし、三田付近に人家が密集しており、実現は難しかっただろう、と見ている。
大崎から横浜方面への路線は、日清戦争開戦直後に突貫工事で大崎方面から大井町方面への短絡線が開通している。
「第2章 ゴチャゴチャの線路には理由がある」では、西武新宿線と西武池袋線が所沢で交差する理由、なぜ大井町付近の鉄道は錯綜しているのか、などを取り上げている。
カーブしたり、ゴチャゴチャだったりする線路だが、まっすぐすぎるのにもウラがある、として検証したのが第3章である。横浜線の町田の手前から橋本の先までの区間には、10キロ以上の直線区間がある。中央線の東中野~立川間の直線に次ぐ長い距離だ。
横浜線を建設したのは、私鉄の横浜鉄道である。明治41年(1908)に東神奈川~八王子の全線が開業している。なぜ直線区間が可能だったのか。相模川の河岸段丘が隆起して誕生したまったくの平坦地だったという地形に恵まれたこと、道沿いに連なる集落を慎重に避け、また台地に入り込む中小河川も丹念に経路から外した努力の跡が見えるという。
昭和10年代になってもほぼ全域が農地(桑畑が多かった)で占められた相模原台地は、都心の軍事施設拡張に伴う移転地候補となった。陸軍士官学校本科の移転開校と演習場、陸軍造兵廠など多数の陸軍施設がつくられた。横浜線はそれらの「最寄り駅」として機能した。原町田駅(現在は移設されて町田駅)が陸軍士官学校本科の最寄り駅となった。学校のすぐそばには私鉄の小田急と相模鉄道線(現在のJR相模線)が通っていたにもかかわらず、7キロ以上も離れた原町田駅に天皇の貴賓室や貴賓口、専用ホームが建設された。「官尊民卑の最たるものだ」と書いている。
鉄道の歴史について書かれた本を読むと、軍と鉄道との関係が深いことがよく分かる。本書で紹介しているのは、横浜市にある「こどもの国」の経緯。ここは東急田園都市線長津田駅から分岐する独自の線路を持っている。住宅地に囲まれた「緑の聖域」として、残ったのは、陸軍の弾薬庫があったからである。戦後は米軍に接収されて、弾薬貯蔵施設として朝鮮戦争でも稼働した。「こどもの国線」も軍用線が起源である。当初、米軍は返還を拒んだが、「皇太子殿下(現在の上皇殿下)のご成婚記念として計画されている」という理由で、返還が実現した。
千葉県の新京成電鉄線が曲がりくねっているのも、鉄道連隊の演習線を利用したからだと「第1章」でふれている。あまりに曲がっているため、戦後、何カ所かショートカットされた。
最近、このジャンルの本が増えている。BOOKウォッチでは、『鉄道路線誕生秘話』(交通新聞社新書)などを紹介済みだ。書き手も地図研究家の今尾恵介さんをはじめ、本書の竹内正浩さんら多士多彩になってきたのも、鉄道ファンとしてうれしい限りだ。
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