作家の辻仁成さんがシングルファザーになったとき、小学生だった息子さんは、現在高校生。パリで暮らす親子はロックダウン下で、家庭内で料理教室を始めたそうだ。やがて料理の時間は大切なコミュニケーションの時間となっていく。
2021年5月23日、『父ちゃんの料理教室』(大和書房)が発売された。本書は辻家の親子の会話を通して食べることの素晴らしさと奥深さを伝えてくれる料理書だ。
タイトルでは『父ちゃん』となっているが、本書のまえがきで辻さんは、息子さんからは「パパ」と呼ばれていると明かしている。辻さんにとって、「パパ」は息子のためだけの呼び名。自分を「父ちゃん」と称するのは、読者に「父性的な立場」で語りかけているからだという。
本書の一部を紹介していこう。
あのね、なぜ生きるのはこんなに大変なんだろうって、思うことあるだろ? 君のように若い人間であっても、もっと幼い子であろうと、あるいはパパよりもうんと年配の人でも、実に、生きるのは面倒なことの連続なんだな。
パパがなんで料理をするのかというと、料理をしていると嫌なことを忘れられるからだ。ついでに美味しいものが出来るからね。完成した時はうれしいし、君が食べてる姿を見ていると、よかったな、と思えて幸福になる。つまり、嫌なことを回避するのにキッチンは最適な場所なんだよ。もっと言えば、パパはキッチンが好きだ。
キッチンにいると小言も出ないし、キッチンで料理している時は美味しいものを作るという目的があるから、気力が湧いて、しゃんとなる。ぐずぐずしてはいられないし......。わかる? ここは台所だが、同時に、心を安らげるのに最適な場所でもある。
君に料理を教えたいと思ったのは、人生の逃げ場所をひとつ作ってやりたかったからだ。辛い時はいつでもここに逃げて来い。つまりだな、キッチンは裏切らないんだよ。
パパは昔、誹謗中傷を受けたことがあった。ボコボコにやられたことがあった。味方は少なかったし、君を育てないとならなかった。その時、パパを救ったのが、他でもないキッチンだった。余計な事を考えている暇はないし、暇を持て余したやつらの批判に振り回されているわけにもいかないからな。親というのはそういうものだ。親は子供に弱音を見せるわけにはいかない。
パパはシングルファザーになった時、毎朝、必ず米を研いだ。覚えているかな? 昔住んでいたアパルトマンのキッチンにもここと同じような窓があったろ? パパはそこから空を見上げて米を研いだ。白く濁った冷たい水の中に手を入れて、ゴシゴシ米を研ぎながら、負けないぞ、と自分に言い聞かせていた。
負けないぞ、がそのうち、美味しくするぞ、になっていった。どんなに寒い冬の真っ暗な朝であろうと、パパは小さな窓から暗い空を見上げて米を研ぎ続けた。それが、生きるということだ。生きるということをここで教えられた。悔しさや後悔や悲しみを、パパはキッチンで払いのけた。
ある日、気がついた。キッチンはパパにとって道場のような場所なんだってことにね。
(「フランス風いかめし」より一部抜粋)
その米を研いで出来上がったのが、「おやじメシ」によく登場するカレーライスとか大盛の卵かけご飯とかじゃなく、おしゃれなフランス風いかめしだったということにも驚くが、辻さんが、料理を通じて息子に語り掛ける自身の哲学や思いに目頭が熱くなる。誹謗中傷にあったときに救ってくれたキッチンは、自身の道場のような場所だというエピソードは力強い。
料理の画像もレストランのように美味しそうで本格的なものばかりだ。
本書の目次は以下の通り。
フランス風イカめし/チキンときのこのクリームソース/クロックマダム/ラモンおじさんのスパニッシュ・オムレツ/牛肉のタリアータ/じゃがいもとベーコンのタルティフレット/鶏もも肉のトマト煮込み/チキンピカタ/中華風蒸し魚/ラタトゥイユ/スモークサーモンとほうれん草のパスタ/ボロネーゼ/ボンゴレ・ビアンコ/他
あとがきにかえて
辻家の定番料理がなぜこんなにもおいしいのかを、さまざまな角度から、経験から、ぼくら親子の会話を通して、深く掘り下げていきます。そうすることで、普通のレシピではどうしても描けなかったその料理の本質に迫ることが出来るのです。(「まえがき」より)
料理を作るうえで欠かせないコツやタイミングから、生き方指南まで。随所に静かな情熱があふれる料理書は、辻さんの小説に通じる。おなかだけではなく心も満たしてくれる1冊。
当サイトご覧の皆様!
おすすめの本を教えてください。
本のリクエスト承ります!
広告掲載をお考えの皆様!
BOOKウォッチで
「ホン」「モノ」「コト」の
PRしてみませんか?