「上から目線」という言葉があるが、本書『13億人のトイレ――下から見た経済大国インド』 (角川新書)は徹底した「下から目線」だ。2020年5月まで3年8か月間、共同通信のインド特派員をした佐藤大介さんが、在位中に折に触れ配信した記事をもとに書き下ろしたもの。特派員には、オフィスに陣取って地元メディアのニュースに目を凝らすだけの人もいるらしいが、佐藤さんはインドのあちこちに足を運び、「下から目線」で見たインドを報告している。
インドは最近経済成長が著しく、これからさらに発展しそうな国ということで注目されている。けん引しているのは、IT技術だ。インド工科大学が特に有名。英国のタイムズ・ハイアー・エデュケーション(THE)が2020年2月に発表した「新興国大学ランキング」によると、全553校中、インドからは56校がランクインした。トップの中国81校に迫る勢いだ。
インド人の優秀なIT技術者は、すでに日本の企業でもたくさん働いている。東京・江戸川区あたりには、彼らがまとまって住む「インド・タウン」が形成されつつある。
佐藤さんの特派員としての主たる仕事も、そうした「インド経済」の活況を伝えることだった。現在約13億人と言われるインドの人口は、2027年には中国を抜いて世界一になると予測されている。GDPは現在世界5位だが、28年までには日本やドイツを抜いて3位になるとも。
佐藤さんはしかし、「数字などのデータから描き出されるインドが、本当のインドの姿なのだろうか」と首をかしげる。「『経済大国』という大文字で語られるインドと、街中を歩きながら自ら体感するインドを重ね合わせると、どうしてもズレがでてきてしまうのだ」。
ニューデリー市内を車で走り、後部座席でウトウトしていると、窓ガラスをノックする音で目が覚める。物乞いたちが恵みを求めて集まってくるのだ。人口の13%が1日1.9ドル(約205円)以下での生活を強いられている。
携帯電話の契約件数が11億件を超える一方で、5~6億人がトイレのない暮らしを続けている。世界の「トイレなし」人口のうちインドに約6割が集中している。
インドは日本から見て本当に有望な投資先なのか。佐藤さんの問いかけに、インド駐在の日本人ビジネスパースンが苦笑いしながら答えている。「本社のエアコンが効いた役員室で、データだけを見ながら考えると『有望』と思うでしょう」。
インドの抱える諸問題を足元から描くことができるキーワードはないだろうか。佐藤さんがそう考えてたどり着いたのが「トイレ」だった。
本書は以下の構成。
第一章 「史上最大のトイレ作戦」――看板政策の実像と虚像 第二章 トイレなき日常生活――農村部と経済格差 第三章 人口爆発とトイレ――成長する都市の光と影 第四章 トイレとカースト――清掃を担う人たち 第五章 トイレというビジネス――地べたからのイノベーション 終章 コロナとトイレ――清掃労働者の苦渋
特に力を入れて取材し、書き込んでいるのが第四章だ。周知のようにインドにはカースト制度がある。下水道などの清掃に関わる労働者の多くは、カースト制度の最下層。不可触賤民とされている「ダリット」と呼ばれる人たちだ。下水管などの作業は人力に頼っているので、2018年には命綱が切れるなどの作業事故で亡くなった人が、少なくとも93人に上るという。補償金も払われず、使い捨て同然だ。人間の排泄物も、それを処理する人も「汚いもの」として忌み嫌われているのだという。人口の13%がダリットに区分されているそうだ。
カーストによって職業が規定されがちなインド。ただし、IT関連は新しい産業なので、実力主義だという。ダリットでも優秀なら成功できる可能性がある。差別意識は、都市部や若者層を中心に緩和されつつあるとも言われる。しかし、インド人同士が結婚するときはカーストが重視されるという。憲法で、カーストによる差別は禁じられているが、カーストの存在自体は否定されていない。
相手に「あなたのカーストは?」と直接尋ねるのは失礼な行為とされているが、名前や出身地、職業などの周辺情報からカーストを推察し、それをもとに距離感を計るというのが通例だという。
もともとインドでは、野外排泄が主流だった。用を足すことに関するカーストの差別はなかったという。ところが、トイレというものが出現し、排泄物の処理をダリットたちが担うことになる。1982年に公開され、アカデミー賞も受賞した映画「ガンジー」では、ガンジーが作った共同体で、炊事やトイレ掃除が全員の分担になっていることが以下のように描かれていたという。
妻 「ソラが私にトイレ掃除をしろというのよ」 ガンジー 「そう、順番だからな」 妻 「階級が違うわ」 ガンジー 「ここには階級はない。仕事の差別もない」
トイレにまつわる「格差」をどう考えるか。佐藤さんは、最上位カーストの人たちも取材している。ヒンズー教の高僧が語っている。
「水洗は便利なシステムかもしれませんが、聖なるものではありません。野外で用を足せば、太陽の暑さによって肥料になり、微生物が分解して姿を消します。水洗は乾燥できず、いつまでも汚いものとして残るのです」 「彼ら(ダリット)が汚く、差別されて然るべき存在というわけではありません。社会がそのように区別していただけで、彼らも喜んでそうした仕事をしていたのです」
この高僧宅で取材中に尿意を催した佐藤さんがトイレの場所を尋ねると、応接間のすぐわきにあった。もちろん、水洗だった。
本書はコロナ禍のことも触れている。インド政府は3月26日、8億人の貧困層を対象に、食糧支援や現金給付の予算措置を発表した。国民の6割が貧困層だというから想像を絶する。大規模なロックダウンを実施したが、コロナは拡散し続けている。感染者数は700万人に迫り、死者も10万人を超えている。
本書には「トイレで進出する日本企業」などの項目もある。何かと注目が集まるインドについて、下から目線で理解が進む。アマゾンではほとんどが星5個という高評価。それが、うなずける内容だ。
BOOKウオッチでは関連で何冊か紹介している。『えっ! そうなの?! 私たちを包み込む化学物質』(コロナ社)によると、世界の農地の2.5%に過ぎないインドの綿花のために、世界の殺虫剤の16%が使われている。『チェンジの扉――児童労働に向き合って気づいたこと』(集英社)によると、インドの児童労働者は435万人(2011年の国勢調査)。インドでは結婚時に女性の持参金制度があり、女の子たちは小学校の高学年になると、自分や姉妹のために、働きに出るケースが多いのだという。炎天下のコットン畑で働いている女の子たちは「頭痛で気持ち悪くなっても休めない」と訴える。同書は、農薬のせいではないか、と書いている。
インドでは識字率が向上中。『タラブックス――インドのちいさな出版社、まっすぐに本をつくる』(玄光社)によると、インドの書籍の市場規模は約6300億円で世界6位。このところ毎年2割増で成長しているそうだ。
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