新型コロナで、過去に出版された感染症関係の本が次々復刊されている。本書『コレラの世界史』(新装版、晶文社)もその一つ。原本は1994年刊。手に取った印象としては、欧米の研究者やジャーナリストが書いた重厚な本のように思える。
人類史上の大きなテーマに正面から向き合い、多数の資料を参照、ディテールにも気配りしながら大作としてまとめ上げる、というのは欧米の学者やジャーナリストが得意とするところだからだ。日本の学者が同じようなテーマに挑むには、語学力の壁もあり、かなりの腕力と執念が必要とされる。それに挑戦していたのが本書であり、ゆえに名著とされていたようだ。再刊にも道理がある。
どの時代にも、その時代を象徴する伝染病があるのだという。中世においてはペスト、大航海時代においては梅毒、そして進歩と帝国主義の時代と言われる19世紀のそれはコレラだったという。インドの風土病だったコレラの襲来は、新しい都市づくりを模索するヨーロッパの大都市、とりわけ、大英帝国の首都ロンドンを揺るがした。日本にも大きな衝撃を与えた。
冒頭にコレラの流行年代が記されている。数え方にもよるが、過去に数回のパンデミックが起きている。19世紀においては、ほとんど毎年のように発生していたことがわかる。
第一次 1817~24年 インド、中国、日本、東南アジア 第二次 1829~37年 世界的な流行 第三次 1840~60年 第一波40~50年 第二波49~60年 第四次 1863~75年 地理的には最大の流行 第五次 1881~96年 コッホによるコレラ菌の発見
イギリスでの死亡者数も掲載されている。イングランド・ウェールズで31~32年には2万1882人、49年には5万3293人、54年は2万97人、66年には1万4378人。
当時の人たちにとってコレラは極めて厄介な感染症だったようだ。ペストや黄熱病は気候や気温で地域が限定されるが、コレラは無関係。氷点下のロシアから灼熱のインドまで流行地域が広がる。それだけ菌の生命力が強い。
歴史上、コレラと同じくらい死亡率が高く、症状の進行が速くて、断末魔の苦しみがひどい疫病はあったが、この三つがそろっているのはコレラだけだったという。
ではなぜコレラは19世紀になって突然出現したのか。いくつかの説がある。
1817年の最初の大流行以前から、インドのガンジス川流域では何度かコレラが発生していた。ヒンズー教の聖地が点在するエリアであり、6年目ごとの例祭や、12年目ごとの大祭の時期に運悪くコレラ菌の活動が活発化すると、拡散することがあった。しかし、1817年のコレラは、古老の記憶では前例がないほど毒性の強いものだった。
したがってこの時、新型の強力なコレラ菌が登場した可能性がある。しかしこれは、確認できない。もう一つはこのころ、イギリスに反抗する現地の闘争が消滅し、イギリス軍がコレラ原生地のベンガル地方からインド内を長距離移動したこと。その途中のインド中央部では約1万人の部隊のうち約3000人がコレラで死んだという。
本書では他の戦争でも、軍隊の移動がコレラの拡大に関係していたことを記している。40年にカルカッタで流行した時は、そこからアヘン戦争に派遣されたイギリス軍によって中国に運ばれた。54年のクリミア戦争では、フランスは約3万人の軍隊を、コレラが流行していた北フランスから送り出し、トルコやバルカン半島に広めた。明治期の日本では西南戦争の後、九州で流行していたコレラを帰還兵が全国にばらまき、日清戦争の後でもやはり帰還兵が大陸から持ち帰った。
コレラがインド発であることが明らかになると、イギリスの責任を問う声も上がったという。このためイギリスは、なかなかインド起源説を認めなかったようだ。
ちなみに20世紀のスペイン風邪は、アメリカから第一次世界大戦でヨーロッパに渡った兵隊によって運ばれたというのが定説になっている。
本書は以下の構成。
第一章 風土病から世界的流行病へ 第二章 イギリス上陸 第三章 コレラとどう戦ったか 第四章 コレラと治療医学 第五章 生水、酒、紅茶 第六章 コレラ暴動 第七章 解剖の社会史 第八章 流行のあとで
それぞれの章でさらに細かく極めて興味深い話が紹介されている。例えば「第七章 解剖の社会史」では、「血に飢えた暗殺集団」「墓掘り人夫たちとの取引」「遺体の国際相場」「殺人鬼バーク」「人食い人種の法案」などコレラと直ちに結びつきそうもないおどろおどろしい項目が並ぶ。本書がウイングを広く取ってコレラのAからZまでカバーしていることがわかる。
著者の見市雅俊さんは1946年生まれ。東京教育大学文学部卒業。一橋大学社会学研究科博士課程中退。京都大学人文科学研究所助手、和歌山大学経済学部助教授、中央大学文学部教授を経て、現在中央大学名誉教授。著書に『ロンドン=炎が生んだ世界都市──大火・ペスト・反カソリック』(講談社選書メチエ)、『近代イギリスを読む』(法政大学出版局)、共著に『路地裏の大英帝国』『青い恐怖 白い街』(共に平凡社)など。
「あとがき」で恩師や環境に恵まれたことに感謝している。東教大時代は、ローマ史の権威の弓削達氏。のちにフェリス女学院大学学長も務め、護憲的な活動でも知られた人だ。一橋大の大学院では、イギリス社会思想史の都築忠七氏。ほとんどマンツーマンで4年間特訓を受けたという。京都大の人文研では河野健二、樋口謹一、吉田光邦らの研究班に入っていた。19世紀の世界史を、コレラから実証的に検証するという本書のスタイルは、上記のような薫陶や研究経歴の結果であると記している。大学で社会科学系が冷遇されているという昨今の事情を聞くと、たしかに見市さんは幸せな時代の研究者だったのかもしれない。
BOOKウォッチでは関連書を多数紹介済みだ。日本のコレラについては『感染症の近代史』(山川出版社)、『病が語る日本史』 (講談社学術文庫)など、世界のコレラでは『世界史を変えた13の病』(原書房)、ロンドンのコレラ関連では『わかる公衆衛生学・たのしい公衆衛生学』(弘文堂)、『世界でいちばん虚無な場所』(柏書房)、欧米人による特定テーマの大作では『ヒトラーとドラッグ――第三帝国における薬物依存』(白水社)、『人と馬の五〇〇〇年史』(原書房)、『サイバー完全兵器』(朝日新聞出版)なども紹介している。
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