「私淑」とは、直接教えを受ける機会のなかった学者・作家などを自分の先生として尊敬し、その言動にならって修養することだが、しばしば誤用される。直接会って教えを受けている場合は、「親炙」というのだが、こちらはあまり見かけない。それほど誤って「私淑」を使う人が多いということだろう。
本書『会いに行って』(講談社)は、「私淑する」ということの意味を正しく教えてくれる本だと思った。
著者の作家・笙野頼子さんが師匠と仰ぐ宇宙的私小説作家の藤枝静男(1907~1993)に捧げる「師匠説」とある。だが、普通の師弟関係ではまったくない。
笙野さんは1981年「極楽」で群像新人文学賞を受賞した。この時、選考委員をつとめていたのが藤枝だ。もちろん何の面識もなかった。
「最終候補者のひとりを激しく擁護して号泣する。この候補者がこの後鳴かず飛ばずで十年本が出なかったために、どうかしていたのではないかなどと言われ批判される(これ私、笙野頼子である(泣))」
授賞式の会場で一度だけ二人は会った。その時のことをこう書いている。
「いろいろ厳しい事も言っておいたが、まだ若いのだから欠点は仕方がない、と少し当惑したような優しい声でおっしゃられた。が、その時のこちらの受け答えが軽薄だったため、少し呆れたような顔をなさった。私ごときが喋れる人ではないと感得した」
笙野さんはその後、雌伏の10年を経て、1991年『なにもしてない』で野間文芸新人賞、94年「二百回忌」で三島由紀夫賞、同年「タイムスリップ・コンビナート」で芥川賞を受賞。新人賞を総なめしたと話題になった。
やっと本を送ることが出来るようになったが、藤枝はすでに入院生活に入っていた。近しい人も控えているということで見舞いを断念。二度目に会った時はお骨になっていた。
だから、本書はタイトルに「会いに行って」とあるが、笙野さんが藤枝の作品やその生涯を亡くなってから読み解いたフィクションであり、論説である。しかし、限りなく自伝的事実に基づいており、すぐれた作家論になっている。それでも評論の体裁をとっていないので、これもまた小説であり、著者の言葉を借りれば、「師匠説」ということになる。
「志賀直哉門下においてもっとも私小説を極めた、この形式の領土を広げた、真に開拓した、小説家である」と藤枝を高く評価している。
その代表作、『田紳有楽』(谷崎賞)は、自分の魂であるわが庭を、ひとつの宇宙にまでした作品である。どんな作品なのか。笙野さんの紹介文の一部を以下に掲げる。
「いつかはブラックホールにのみ込まれる大宇宙の片隅。そこに、浜名湖と原発と阿闍梨ケ池がある。ひとつの家の庭にはユーカリと池。池にはいくつもの茶碗が沈めてある。主人公は骨董を収集。安物を買ってきて池の泥、金魚の糞等で汚し、『偽物』を『本物』に仕立てるのだ。家の来客は部屋に来てトイレの水洗に消える。その正体は茶碗。『本物』に化ける前にもう化けている。空を飛び、魚と番い、昔の自分の持ち主を殺しもする。......」
茶碗が空を飛ぶが、これは童話や幻想小説ではなく、徹底した厳密さの「私小説」だと書いている。
一軒家の庭にあるユーカリと池が「幻と現、あるいは時と宇宙、外と魂をも」すべてを表現し創出するというのだ。
藤枝の本業は医師だった。旧制千葉医大を卒業し、長く静岡県浜松市で開業した。その生涯をこう書いている。
「二十八歳から六十二歳まで医師として大変忙しく働いていた。若いころセツルメントでボランティア診察に行って、一日三百人の患者の目を洗った、さらには夫人のお父上の病院を託されて、時に一日四百人の患者を治療していた。なおかつ、眼科は手術がある。彼実は、外科の名手だった」
藤枝と志賀直哉、中野重治との関係性を論じ、「戦前も戦後もマルクスにも天皇にもキリストにも染まらなかった」と総括している。
藤枝は夫人の死を描いた『悲しいだけ』で1979年野間文芸賞を受賞した。笙野さんは長く体調不良に苦しんだが、原因が膠原病であることが分かり、2014年『未闘病記――膠原病、「混合性結合組織病」の』で野間文芸賞を受賞した。
純文学の最高賞の一つと言われる野間文芸賞をともに異色の私小説の書き手である二人が受賞したことは、私小説のフィールドを広げたことを顕彰したということだろう。
本書にも昨年(2019年)秋の台風で、千葉県佐倉市にある笙野さんの自宅が停電した模様が「師匠」に向けて実況中継される記述が延々と出て来る。
「ていうかなんか、こうしていると私小説とは何か、の一面が現れてくるような気がしましたよ」
藤枝静男の作品を子細に検討した「私小説」論としても読むことが出来る。笙野さんの私小説は、いったいどこまで行くのだろうか。
BOOKウォッチでは私小説関連で、島田雅彦さんの『君が異端だった頃』(集英社)、白石一文さんの『君がいないと小説は書けない』(新潮社)、西村賢太さんの『羅針盤は壊れても』(講談社)、『父・山口瞳自身』(小学館)などを紹介済みだ。
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