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この「過労死」は、誰にでも起こりうる!

過労事故死

 夜勤明けに原付バイクで帰る途中の若者が、交通事故で亡くなった。本書『過労事故死――隠された労災』(旬報社)は、息子を失った母が、裁判に訴えて勝利的和解を勝ち取った記録である。月間100時間を超える残業をさせながら、線香をあげにくるわけでもない会社側への怒り。多くの人々の支援。情熱をもって取り組んだ裁判官。一つの痛ましい事故から、下積み労働者の実態と、稀有な裁判の全容が浮かび上がる。

直進道路で路外の電柱に激突

 著者の川岸卓哉さんは本件を担当した弁護士。1985年生まれ。早稲田大学法学部卒。川崎合同法律事務所、日本労働弁護団、自由法曹団、ブラック企業被害対策弁護団、神奈川過労死弁護団に所属している。共著者の渡辺淳子さんは、亡くなった息子の航太君(当時24歳)の母。

 事故は2014年4月24日午前9時12分ごろ起きた。横浜の就業場所から原付バイクで片道約1時間の東京・八王子市の自宅に帰る途中、川崎市麻生区の直進道路で路外の電柱に激突したのだ。道路は二車線。制限速度(時速40キロ)に従って走行中に、左前方に斜行して歩道にはみ出したと見られている。睡魔に襲われたのか、それとも体調の急変があったのか。

 航太君は13年4月、東洋大経営学部(二部)を卒業。正社員採用を目指して就職活動を続けていたが、どこにも決まらず、同年10月から、「グリーンディスプレイ」という会社で、アルバイトとして働いていた。大手デパートや各種店舗に、主として植物をディスプレイする会社だ。

 実際には、この会社の正社員採用面接を受け、最終面接まで進んでいた。しかし、合否は知らされず、会社からアルバイトの誘いがあった。ゆえに航太君は、一種の試用期間と受け止めて週6日間、正社員になることを期待しながら働いていた。それだけにストレスがたまり、心身の限界まで働く日々だった。14年3月中旬には正社員にするという口頭の連絡があったが、書類などは示されなかった。GW中に会社に正式に問いただし、曖昧なら別の会社を探そう――母と息子で話し合った4日後に事故が起きた。

ホットラインに電話がつながった

 淳子さんは、航太君が亡くなって半年近くたった14年10月、神奈川労働弁護団の電話相談窓口「労働相談ホットライン」に電話をかけた。何日も続けて、何度かけても話し中。これで最後にしようと思ったときにつながった。航太君の死について、会社にまったく責任はないのか。母としてどうしても、その答えを知りたかった。航太君の小学校の同級生で、法科大学院に通っていた友人から、このホットラインを教えられた。

 電話を受けたのが川岸弁護士だった。弁護士になって3年目。話を聞きながら、涙をこらえることができなかったという。

 会社の責任を問うことは可能なのか――。当時の川岸さんの知識では、原則、業務終了後の帰宅途中の事故は、会社の指揮命令の範囲外のため、あくまで自己責任。通勤災害として補償の対象にはなりえても、会社の責任まで問うのは難しいのではないかと思った。しかしながら、この事故で会社の責任を問えないのでは司法の責務である「社会的正義=リーガルマインド」に反すると考えた。

 裁判例を探したところ、09年の「鳥取大学医学部附属病院事件の鳥取地裁判決」があることに気づく。鳥取大医学部大学院生の医師が、徹夜勤務の後、関連病院に通勤する途中、トラックと正面衝突した死亡事故だ。父母が真相究明のため裁判に訴え勝利の判決を得ていた。川岸さんたちはこの判決を手がかりに、一周忌にあたる15年4月24日、横浜地方裁判所川崎支部に訴える。

市民運動が過労死防止法につながる

 「過労死」という言葉は今では誰でも知っているが、誕生したのはそう昔のことではない。1988年「過労死110番」が始まり、89年「過労死を考える家族の会」、91年「全国過労死を考える家族の会」が結成された。96年には「過労自殺」が東京地裁で認められ、2000年には最高裁で確定。「家族の会」や「過労死弁護団」などが「過労死防止基本法」の制定を各所で訴えて14年6月、「過労死等防止対策推進法」(過労死法)が成立した。これが、過労死が市民権を得るまでの大まかな流れだ。

 淳子さんも「家族の会」に入会した。裁判は「家族の会」や、ブラック企業に対する取り組みを続けているNPO法人「POSSE」などの支援を受けた。

 川岸弁護士らは航太君が働いていた6か月間の時間外労働記録を取り寄せた。タイムカードによると、事故前1か月(4月23日から3月25日)は127時間49分。その前も1か月ごとに調べると、短いときで約33時間、多いときは約152時間にもなっていた。とりわけ事故直前はひどかった。

 4月22日 8時ごろから大井町の顧客店舗で植樹メンテナンス。23時ごろ、バイクで帰路。
 4月23日 11時ごろ、横浜ベースに出社、業務。24時ごろ東京・丸の内に移動。翌24日7時ごろまでガーデンショーの植栽装飾イベント準備。その後、横浜ベースに戻り、8時48分ごろバイクで帰路。

 そして9時12分ごろ、事故が起きた。現場は見通しが良い平坦な道路。進行車線の幅は約4.1メートル。後ろを走っていた目撃者の証言では、「バイクについて行ったら、バイクが左側に斜めに走り、ポールや電柱にぶつかるのを見た」。実況見分の結果は、目撃証言と一致していた。

元従業員から協力者

 前夜の勤務について、会社側は「仮眠をとっていた」と主張する。タイムカードの記録とは異なる。すでに航太君は亡くなっているので反論できない。過労死事件には常に立証の難しさが付きまとう。

 川岸さんらは、航太君と接点があった同僚を探し出す。事件後に同社を辞めていた二人が見つかった。法廷の証人になるのは、大変勇気のいることだが、川岸さんや淳子さんが必死に説得した。

 そのうちの一人からは、提訴後の会社の様子が聞けた。当日のうちに緘口令が敷かれ、取引先などから聞かれても、話すな、と言われた。提訴されたことで、この会社の労働環境も少しは良くなるだろうと期待したが、変わらなかったので辞めたという。こうした協力者の法廷での陳述もあり、長時間・深夜不規則労働の実態が明らかになっていく。

 川岸さんたちは当初、和解することは一切考えていなかった。一般に、和解での解決は、責任をあいまいにした金銭賠償の合意で、解決内容については口外禁止条項がつく。そうではなく、会社の責任を明らかにする明確な判決を勝ち取り社会に示すことによってこそ、過労事故対策の法規範を勝ち取れ、再発防止になると考えていた。

 しかし裁判長から、「公害事件のように和解決定で損害賠償だけでなく、謝罪、再発防止に踏み込むこともありうる。判決以上のものとなるものもある」と強く説得され、受け入れることになる。

会社側も粘る

 2017年11月9日の和解期日。裁判長は和解決定文のもとになる「所見」を示した。和解勧告としては異例の15ページに及ぶ長文。会社の責任を明確に認定していた。

 しかし会社側は、あくまで金銭のみの和解には応じるとの回答。これを受けた裁判所は、被告側代理人を長時間説得。18年2月8日を最終和解期日とし、公開法廷とする、和解案に応じない場合は、2月22日に証人尋問、3月中に判決を出す、と宣言した。

 会社側はなおも粘り、和解案のうち、過労に起因して本件が起きたとする部分を削除すること、非公表にすることを条件に、着地点を提案してきた。淳子さんは同社の社長に手紙を送り、支援メンバーも同社への働きかけを強めた。その結果、和解期日の6日前になって、会社側から和解受諾の返答があった。

 これが本書に報告されているこの裁判の概要だ。会社側からすれば違う言い分があるかもしれないが、「帰宅途中の事故死」に関する貴重な裁判例となっている。他人事ではないと、実感を持って受け止める人も少なくないのではないか。

 法曹を目指す学生らの参考にもなりそうだ。弁護士や裁判官のリーガルマインドを知ることができる。さらには、裁判では先行判例の研究が欠かせないこと、「過労死」の場合、支援団体との連携や内部協力者の獲得が大きなポイントになることがわかる。

 BOOKウォッチではすでに『過労死110番―― 働かせ方を問い続けて30年』 (岩波ブックレット)を紹介済み。ブラック企業については『ストライキ2.0――ブラック企業と闘う武器』 (集英社新書)。このほ『教師のブラック残業』(学陽書房)、『「働き方改革」の嘘――誰が得をして、誰が苦しむのか』 (集英社新書)、『企業ファースト化する日本』(岩波書店)、『絶望の裁判所』 (講談社現代新書)、さらには電通女子社員の自殺を取り上げた『東大を出たあの子は幸せになったのか』(大和書房)なども紹介している。



 
  • 書名 過労事故死
  • サブタイトル隠された労災
  • 監修・編集・著者名川岸卓哉、渡辺淳子 著
  • 出版社名旬報社
  • 出版年月日2020年5月11日
  • 定価本体1500円+税
  • 判型・ページ数四六判・200ページ
  • ISBN9784845116348
 

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