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福岡に行った気分になるおいしい物語

終電前のちょいごはん

 7月23日は文月の「ふみの日」。近ごろめっきり手紙を書かなくなったという人も、こんな店があったらまた手紙を書きたくなるかもしれない。

 標野凪(しめの なぎ)さんの本書『終電前のちょいごはん――薬院文月のみかづきレシピ』(ポプラ文庫ピュアフル)は、福岡市中央区薬院が舞台の連作短編集。薬院は、上質なブティックやカフェの多いおしゃれエリアとして知られる。

 その薬院の裏通り、古いビルの二階にある「文月」は、三日月から満月の夜の間だけ開いている小さな料理店。「本が読めて手紙が書ける店」のコンセプトどおり、店内は本が並び、毎月23日の「ふみの日」には便箋と封筒を客に提供している。

著者は現役カフェ店主

 「文月」は、一人で文庫本を読んだり真剣に手紙を綴ったりする客も多く、「静かに思いおもいの時間をすごすことができる」隠れ家的な空間として描かれている。

 店の前に置かれた黒板には、控えめな手書き文字で「おかえりまえのちょいごはん どうぞ」とある。仕事がうまくいかない、恋愛が不安、誰かと話したい、帰る前にちょっとどこかに寄りたい......。そんなとき、店主・文(あや)がつくる気の利いた季節の「ちょいごはん」に身も心も癒される。

 「今日も日常からほんの少しだけ寄り道したい人たちが、そっとここを目指してくるだろう」

 標野凪さんは、静岡県浜松市出身。グラフィックデザイナー、建築士の傍ら、福岡でカフェを開業。現在、都内で小さな店を切り盛りする現役カフェ店主でもある。2018年第1回「おいしい文学賞」で最終候補となり、翌年本作でデビュー。

 福岡で実際どのくらい方言が使われているのか評者はわからないが、登場人物が方言を多用して会話しているところが印象的だった。福岡でカフェを営んだ著者自身の経験が、本作に反映されているのだろう。方言とともに、福岡の街並み、店の外観、店内の様子、料理の描写にリアリティがある。福岡にゆかりのある人はもちろん、福岡に行った気分になりたい人も楽しく読めるだろう。

季節の野菜を使った「こつまみ」

 店主・文は30代前半。やや重めのまぶたが、どことなく眠そうな印象を与えている。「やわらかい笑顔に緊張がほぐれる」「物腰のやわらかい話しやすそうな」「文さんの天然な雰囲気のおかげで肩肘張らずに過ごせる」と、客から親しまれている。

 「文月」では、季節の野菜を使った小さなおつまみ「こつまみ」がメニューに並ぶ。ぶどうを半分に切って白ワインをかけ、エスニックな香りのスパイスをぱらりと振りかけた「ぶどうの親子」。れんこんを一センチほどの輪切りにしてオリーブオイルで炒めた「厚切りレンコンソテー」など。

 「どれも凝ってはいないけれど、丁寧に作られているのが感じられ、じんわりと味わい深い」

 本書は9つの物語「月夜のグリューワイン」「森のカクテル」「本とおさかなのスープ」「池田飲みとしろくま」「柚子と適燗」「スルメとてんとう虫」「バレエシューズとうすぎりショウガハイボール」「新茶と煮物」「七月のみかづき」からなる。巻末に「文さんの一言メモつき みかづきレシピ」付き。

 プロポーズしてもらうための計画を必死に立てるアラサー女性。親しい元同僚の死に動揺する40手前の女性。「だらしない女」の罪で逮捕されるのではというほど身なりに無頓着な30代女性。80過ぎの母親と噛み合わない関係が続く50代女性など。登場人物の年齢、職業、悩みはそれぞれだが、「文月」に来ることでリセットされ、前向きな一歩を踏み出す点で共通している。

紙の本と、紙「じゃないほう」の本

 ここでは、9つの作品のうち評者が最も興味深く読んだ「本とおさかなのスープ」を紹介したい。大城は東京の出版社から地元・福岡の出版社に転職し、合わせて25年近く編集者をしている。出版業界の状況の変化として、紙より電子書籍が伸びている、小説より自己啓発書・ビジネス書・実用書が主流になっている、この2つが挙げられている。

 大城は電子書籍専用の端末、いわゆる紙「じゃないほう」の本を試しに読んでみる。これが案外わるくなかった。「古き時代を愛でてばかりでは、頑固オヤジになるばかりだ。こうやって柔軟に対応していくことも必要だ」と、紙の本への愛着を持ちつつ電子書籍への抵抗をなくそうとする。

 小説については、「文月」の客同士でこんな会話が交わされる。「私、あんまり小説とかって読まんっちゃんね」「ああ、わかる。作り話やんって思うと入り込めんよね」。さらに「小説はいわばスナック菓子」「軽く読める」「そのために時間使うって勿体ない」とまで。一方、小説に好意的な客もいる。

 「物語の力ってすごいですよね。架空のことなのに、すっと心に響いてくれるんですもん。カッコいい言葉で書かれたノウハウ本やインターネットの相談サイトでは見つからんようなことが、小説の中だとあっさりと納得できたりするけんね」

 ちなみに全国出版協会のサイトを見たところ、2019年の出版市場は紙が前年比4.3%減、電子が前年比23.9%増とある。ふだん紙の本を読んでいる身としては実感していなかったが、出版業界の状況は着実に変化していることがデータからもわかる。

 今年(2020年)6月、本作のシリーズ第2弾となる『終電前のちょいごはん――薬院文月のみちくさレシピ』(ポプラ文庫ピュアフル)が刊行された。BOOKウォッチでは、第1回「おいしい文学賞」受賞作となった白石睦月さんの『母さんは料理がへたすぎる』(ポプラ社)を紹介済み。



 
  • 書名 終電前のちょいごはん
  • サブタイトル薬院文月のみかづきレシピ
  • 監修・編集・著者名標野 凪 著
  • 出版社名株式会社ポプラ社
  • 出版年月日2019年6月 5日
  • 定価本体680円+税
  • 判型・ページ数文庫判・311ページ
  • ISBN9784591163061
 

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