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柳田国男と南方熊楠の「大論争」とは?

耳鼻削ぎの日本史

 文庫本にしては値が張る。定価1400円。しかし、本書『耳鼻削ぎの日本史』(文春学藝ライブラリー)は中身が濃い。値段以上のクオリティがあると感じた。なぜ「耳なし芳一」は耳を失ったのか。なぜ豊臣秀吉は朝鮮出兵で鼻削ぎを命じたのか・・・。日本史の闇に隠れていた猟奇的習俗にスポットを当て、その意味や歴史をリアルにあぶりだしている。2015年に洋泉社から刊行された原著の文庫化だ。

「知の巨人」が正面からぶつかり合う

 「はじめに」を読んだだけで引き込まれてしまう。「耳鼻削ぎ」というのは極めて気持ちの悪い話ではあるが、これをテーマに民俗学者の柳田国男(1875 ~1962)と、博物学者の南方熊楠(1867~1941)が大論争をしていたのだという。しかも親しかった二人が、最終的に決裂する一因にもなったのだという。

 柳田と熊楠は生涯に150通近い手紙を通じて、さまざまな問題について語り合っていた。この膨大な往復書簡の最後のやりとりとなったのが、日本各地に残る「耳塚・鼻塚」とよばれる塚の評価だった。

 柳田は1916年に発表した「耳塚の由来について」という論文で、耳塚・鼻塚の中には兵士たちの耳や鼻が眠っているという伝承を否定していた。戦場の耳鼻削ぎではなく、神への生贄にされた動物の耳や鼻ではないかと推理した。

 この件について、柳田に意見を求められた熊楠は猛烈な批判を送る。文献史料をもとに中世日本の戦場においては耳鼻削ぎという「いたって惨酷なる風習」が実在したことを執拗なまでに論証する。

 このやりとりは3回ほど続いたが、途切れてしまい、二人は絶縁する。「耳鼻削ぎ」という「マイナー」な習俗をめぐって、20世紀の日本を代表する「知の巨人」が正面からぶつかり合い、決裂の一因になったというから、ただごとではない。

多数の具体例について論究

 本書の著者の清水克行さんは1971年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。現在、明治大学商学部教授。専攻は日本中世史。『喧嘩両成敗の誕生 』(講談社選書メチエ) 、『戦国大名と分国法』 (岩波新書)、『足利尊氏と関東』(吉川弘文館)などの著書がある。

 上述の柳田――熊楠論争についての説明は、極めてわかりやすい。二人の研究手法、日本文化観・民俗学観の違いが象徴的にあらわれているというのだ。

 柳田は史料収集にも卓越していたが、とりわけそれを意味づける着想の妙に魅力があった。耳塚・鼻塚についても、通俗的な説明では終わらせずに、神や精霊への生贄文化に飛躍させる。発想が柔軟だ。清水さんは、「その飛躍は、魅力とは裏腹に柳田の弱点でもあり、しばしば柳田の著作には論証抜きのこじつけとも思われる強引な論法が顔を出す」と指摘する。

 一方の熊楠の仕事の魅力は、偏執的ともいえる情報収集に支えられていた。今でいえば人間インターネット。洋の東西を問わない博引旁証のパワーでは誰もかなわない。すでに多くの文献史料で耳鼻削ぎの史実を知っていたから、柳田の見解に黙っていることができなかった。

 さらにいえば柳田は研究対象から残酷さやグロテスクなもの、性愛などを意識的に排除しようとする傾向があったという。「民俗学」という新しい学問のパイオニアとして、神経を使ったのだろう。これに対し、熊楠は男色やオカルトに惹かれる面が強くあった。民俗の"陽"だけではなく"陰"にも目配りする。この「耳鼻削ぎ論争」はいみじくも二人の違いを際立たせるものになったという。

 清水さんは、史実としては熊楠が正しかったが、全国に残る耳塚・鼻塚のすべてを熊楠説で説明できるわけではない、とバランスをとる。そして多数の具体例について論究していく。

刑罰の側面と、戦乱での戦果確認

 本書は以下の構成。

 「はじめに 耳塚・鼻塚の伝説を訪ねて」
 「第一章 『ミミヲキリ、ハナヲソギ』は残酷か?」
 「第二章 『耳なし芳一』は、なぜ耳を失ったのか?」
 「第三章 戦場の耳鼻削ぎの真実」
 「第四章 『未開』の国から、『文明』の国へ」
 「第五章 耳塚・鼻塚の謎」
 「終章 世界史のなかの耳鼻削ぎ」
 「補論 中世社会のシンボリズム――爪と指」

 各章で順に、「日本史教科書で描かれた耳鼻削ぎ」「耳鼻削ぎは誰のための刑罰か?」「耳鼻削ぎの系譜をたどる」「戦功の証となった戦国争乱の世」「秀吉の朝鮮出兵と海を渡った耳鼻削ぎ」「江戸幕府と諸藩に広がる耳鼻削ぎ」など、具体例を分析しながら、大きな流れが書き込まれている。

 本書によれば、耳鼻削ぎは刑罰の側面と、戦乱での戦果確認という二つの要素があった。いずれも平安時代後期に始まったと見られている。刑罰については、当初は死罪となるべき犯罪を、罪一等減じる手段だった。主として女性や僧侶に対して行われていた。男性の場合、同じような意味合いを持ったのは、「髻(もとどり)を切る」ということだったという。

 戦乱での戦果確認手段としては、戦国時代に一般化した。合戦が大規模になったことと関係しているようだ。大量に殺し合うから、首を運びきれなかったのかもしれない。国内戦では、信長軍が伊勢国長島で一向一揆を討伐したときに、百姓の男女2000人の耳鼻を削いでいたという。ほかにも大規模な合戦での事例がいくつも出てくる。秀吉の朝鮮出兵では女子供も含めて何万もの「鼻」が持ち帰られた。その怨念は今も韓国に渦巻く。

 この時代に、刑罰としての耳鼻削ぎもエスカレートしたという。「死罪を罪一等減じる」から、「耳鼻を削いで苦痛を与え、さらに死罪」と、残虐さや加罰性を増していく。推進したのが秀吉だという。清水さんは、朝鮮出兵も含めて秀吉は、「日本史上最大の耳鼻削ぎの実行者」と認定している。ちなみに「鼻」を戦功の証とする習俗は、日本以外では見られないらしい。

「新選組」のアナクロニズム

 江戸時代、いくつかの藩では公式に「耳鼻削ぎ」を刑の一つに含めている。戦国末期の延長だ。しかし、天下泰平となって、世の中が落ち着くと様変わりする。五代将軍綱吉の「生類憐みの令」などもあって、残虐な刑罰は下火になる。おおむね17世紀末になると、実際には行われなくなったという。

 記録としてそれ以降に登場するのが「新選組」だ。彼らの内規には、規律違反者に対する「鼻削ぎ」の掟があった。実際に、池田屋事件の直後に新選組に捕らえられた長州の密偵は、拷問にかけられ、耳鼻を切られて斬り捨てられたという。清水さんは、この時期になってまだ前近代的な刑罰を採用していたアナクロニズムに、新選組の限界を見ている。

 本書で清水さんは、初めて「耳鼻塚」を訪れたときのことを振り返っている。場所は、長野県松本市。戦国時代の「桔梗ヶ原の戦い」の戦死者の耳を埋葬したといわれている塚だ。落武者の幽霊伝承などが語り継がれているのではないかと想像していたが、地元の人は「聞いたことがないです」。

 耳塚の上には道祖神(疱瘡神)と「キキミミサマ」が祀られていた。耳の聞こえが悪い人がお参りすると、よくなるそうだ。耳塚は、いつのまにか新たなパワースポットに変貌していた。その意味では、柳田国男も的外れではなかったといえそうだ。

 本書では最終章で、全国各地の「耳塚」「鼻塚」の探訪記が掲載されている。全国で20ほどあるようだ。文庫化にあたり、新たに「爪と指」に関する論考と、耳鼻削ぎを描いた図版が増補されている。

 ややこしい歴史の話も、本書のように一つの切り口で見直すと、一段と理解が深まる。BOOKウォッチでは関連で、『病が語る日本史』 (講談社学術文庫)、『飢餓と戦争の戦国を行く』(吉川弘文館)、『日本人の名前の歴史』(吉川弘文館)、『地図でみるアイヌの歴史』(明石書店)、『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫)なども紹介している。

 


 


  • 書名 耳鼻削ぎの日本史
  • 監修・編集・著者名清水克行 著
  • 出版社名文藝春秋
  • 出版年月日2020年4月10日
  • 定価本体1400円+税
  • 判型・ページ数文庫判・271ページ
  • ISBN9784168130809
 

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