江戸時代は身分社会。士農工商の区分があって、身分は世襲、というのが常識だった。ところが、本書『壱人両名――江戸日本の知られざる二重身分』(NHKブックス)によると、必ずしもそうではなかったというのだ。身分をまたぐ人や掛け持ちする人、その結果、一人で複数の名前を持つ人がかなり多くいたという。いったいどうしてそんなことが可能だったのか。
著者の尾脇秀和さんは1983年生まれ。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)。現在、神戸大学経済経営研究所研究員、佛教大学非常勤講師。専門は日本近世史。著書に『近世京都近郊の村と百姓』(思文閣出版)、『刀の明治維新──「帯刀」は武士の特権か?』(吉川弘文館)がある。
本書は以下の構成。
序章 二つの名前をもつ男 第一章 名前と支配と身分なるもの 第二章 存在を公認される壱人両名──身分と職分 第三章 一人で二人の百姓たち──村と百姓の両人別 第四章 こちらで百姓、あちらで町人──村と町をまたぐ両人別 第五章 士と庶を兼ねる者たち──両人別ではない二重身分 第六章 それですべてがうまくいく?──作法・習慣としての壱人両名 第七章 壊される世界──壱人両名の終焉 終章 壱人両名とは何だったのか
例えば、近江国大津の町人、木屋作十郎は、別の村では百姓清七だった。陸奥盛岡藩士の奈良伝右衛門は、同藩領の富商・佐藤屋庄六でもあった。公家の正親町三条家に仕える大島数馬と、京都近郊の村に住む百姓の利左衛門は、名前も身分も違うが、同一人物だった。彼は大小二本の刀を腰に帯びる公家侍「大島数馬」であると同時に、村では野良着を着て農作業に従事する百姓「利左衛門」でもあった・・・。
複雑なケースも出てくる。ある訴訟で訴えられた伊勢国斎宮村の「百姓丈右衛門」は、「藤波殿の家来、永嶋丈右衛門」という公家侍でもあり、伊勢街道沿いで商いを営む「泉屋丈右衛門」でもあった・・・。
彼らのように、複数の名前と身分を使い分ける存在形態は「壱人両名」と呼ばれた。別に「幕府の隠密」ではない。単なる市井の人、すなわち一般人だ。江戸中期以降、さまざまなタイプの「壱人両名」がいたのだという。本書は多彩な実例をもとに、それらを丁寧に分類しながら、あまり知られていない「壱人両名」について詳細に解説している。
重要なのは江戸時代、だれもがどこか一つの「支配」(管轄・統治)に帰属していたということだという。この「支配」との帰属関係が、公的な意味での「身分」ということになる。例えば「町人」は「町奉行」の「支配」のもとにある。名前が、「人別帳」に記載され、存在が把握される。
もちろん「壱人にて両名」を名乗ることは「禁制」だった。しかし、18世紀に入るころから、百姓や町民の一部が、下級役人として幕府の仕事に取り立てられるようになり、多少事情が変わってくる。
例えば、江戸の富裕な町人「三九郎」が、あるとき「勘定所御用達」に任命される。つまり「町人」なのに勘定奉行の下で「御用」(公務)の仕事をすることになる。身分をどうするかが問題となったが、この場合は「町人」で据え置きということに。
こうした場合、大きな問題があった。勤務中のみ、身分標識として、外見や名前は武士と同じになるよう、「苗字帯刀」となったからだ。勤務時間中と特定の場所でのみ「武士」となる。「町人ときどき武士」のような格好だ。身分は町人だが、職分は武士という二重生活。名前も二つを使い分ける。
町人などから武士に身分を変えることは不可能ではなかった。「支配替」という。しかし、手広く商売をやっていたりしていた町人にとっては、「商売停止」が条件になる。下級武士の給料は安い。町人身分のままの「二重生活」の方が好ましい、ということになる。しかしながら「町人ときどき武士」のような存在が増えてくれば、何かと問題も起きそうだと想像がつく。
本書では、江戸時代の「支配」という管理システムについて縷々説明されている。現在の支配という用語とはちょっとニュアンスが異なる。「管理・管轄」に近い。例えば百姓は領主などの「支配」ごとに「人別」が作成され、それが「支配」との帰属関係、すなわち「身分」を公証する。私たちは普通、特定の村の「支配」は一人の領主と思いがちだが、実態はもっと複雑だった。その結果、面倒なことが起きる。
武蔵国久米原村には、大名・旗本ら「領主」が三人もいた。村の中の地域が三分割されていたわけではない。58軒の百姓は、戸別に三人の領主に属していた。年貢は領主別に集めて上納される。名主などの村役人も領主ごとに任命されていた。中には複数の領主に属する百姓もいたことがわかっている。一人の領主には「源四郎」、もう一人の領主には「八郎右衛門」という名で登録されていたりする。まさに「壱人両名」だ。
こうしたトラブル発生の一因には「株」の存在があるのだという。江戸時代の身分は「株」として売買され、養子手続きで譲渡・相続可能だった。百姓や町人が株を買って旗本や御家人になることができたし、百姓自身の身分も、同じように相続できた。裕福な百姓なら、他の百姓の名前や権利財産を買い取ることもある。
例えば、ある村に「源右衛門」という身分と名前が何代も継承されていたとする。しかし、歴代の「源右衛門」の血がつながっていたかどうかはわからない。何の血縁関係もない人物が「百姓株」を買い取って継承していたのかもしれない。
著者は「源右衛門」という「名前」は、いわば"椅子"のようなものだという。領主という「支配」から見れば、ずっと「わが領民の源右衛門」は続いているが、昨日と今日では、まったくの別人が座っているのかもしれない。本書の「第三章」以降にはさらに多様な事例が出てくる。
「壱人両名」が生じてくる背景には、当時の「行政」が縦割りだったこともあるようだ。例えば、伊勢国西阿倉川の百姓仁左衛門は、歩いて30分ほどの四日市宿川原町の百姓彦兵衛でもあった。両方の村の人別帳に登録されていた。先祖は西阿倉川の百姓だが、のち四日市に出て商いを始めたらしい。村は「壱人にて両名」になっていることを知っていたが、黙認していたようだ。年貢さえ納めてくれていたら、それでよかったからだ。
もちろん、本来は違法だ。しかし、行政は縦割り。上記のケースでは、「仁左衛門」と「彦兵衛」は領主が異なっていた。役人は、他の管轄に関することには関知しない。訴訟などで、問題が表面化した時に、調整に乗り出す。推測だが、どちらか一つの名前に統一すると、他方の村では年貢が減るので抵抗したのではないだろうか。
著者は江戸時代の多数の訴訟記録などを引用しながら、「壱人両名」の実態を暴き出す。建前としては違法だが、グレーゾーンの事例も少なくない。そして長年の研究をもとに、次のように総括する。
「真実なるものは、平穏な現状を犠牲にしてまで、強いて白日の下に曝される必要はない。事を荒立てることなく、世の中を穏便に推移させることこそが最優先されるべきであり、秩序は表向きにおいて守られていればよい――。そのように考えて、うまく融通を利かせて調整・処理するのが、長い天下泰平の期間に醸成されていった、江戸時代の秩序観なのである」 「このような建前を重視した処理は現代の日本にも存在し、むしろ当然のこととも考えられていよう・・・但しこのような調整行為の本質は、真実に即して言えば明らかに虚偽・不正である。その本質による危うさもやはり見逃してはなるまい」
本書は上述のようにあまり知られていない江戸時代の姿を克明に掘り起こし、いろいろと勉強になることが多い。テレビの歴史番組や、時代小説の素材としても興味深いのではないだろうか。そういえば、「遠山の金さん」や「暴れん坊将軍」なども、別な形の「壱人両名」ということになるのかもしれない。
BOOKウォッチでは名前や戸籍の関係で、『日本人の名前の歴史』(吉川弘文館)、『天皇と戸籍――「日本」を映す鏡 』(筑摩選書)、『戸籍が語る古代の家族』(吉川弘文館)など。江戸時代については、『藩とは何か――「江戸の泰平」はいかに誕生したか』 (中公新書)、『墓石が語る江戸時代――大名・庶民の墓事情』(吉川弘文館)、『犯科帳――長崎奉行の記録』(岩波新書)、『オランダ商館長が見た 江戸の災害』(講談社現代新書)、『維新旧幕比較論 』(岩波文庫)なども紹介している。
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