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「美智子さま」と「樺美智子さん」・・・二人の「美智子」の類似と相違に迫る

六〇年安保――1960年前後

 60年安保から60年。何か適当な本はないかと探していたら、本書『六〇年安保――1960年前後』(岩波書店)が見つかった。岩波の「ひとびとの精神史」シリーズの 第3巻だ。2015年刊。吉見俊哉・東大教授ら12人の執筆者が、60年安保、ならびに同時代の12のテーマと、その主役となった人物について掘り下げている。中でも興味深かったのが、巻頭の吉見論文「美智子妃と樺美智子――転換期の女性像」だ。

「お嬢さま」と「キリスト教」

 「美智子妃」は正田美智子さん。58年11月に皇太子との婚約発表。59年4月結婚。民間からの皇太子妃ということもあり、日本中がミッチーブームに沸いた。一方の樺さんは60年6月15日、安保闘争で亡くなった東大生。60年安保の苦い記憶として語り継がれている人だ。

 吉見さんは、二人とも「美智子」ということに注目する。この名前は1930年代くらいから目立つようになったそうだ。「美」が付く三文字ネームでは「美代子」の人気が先行していたが、35年に「美智子」が追い抜く。「美」だけではなく「智」が付いている。娘に美しさと知性を期待する。そんな親の願いが託された名前だ。時代の気分がうかがえる。ちなみに美智子さまは34年、樺さんは37年の生まれだ。

 吉見さんによれば、「美智」はギリシャ哲学が理想とした「カロカガティア」(美にして善)に由来するという。「智」はクリスチャンやミッション系との結びつきも感じさせるとも。ちなみに正田家はクリスチャンの一家。樺さんの母もクリスチャンだという。

 もちろん両家には何のつながりもない。だが、吉見さんは、両家の親が偶然とはいえ、30年代半ばに生まれた娘に同じ名前を付けたことにこだわる。正田家は実業家。樺さんの父は著名な学者。当時、キリスト教と関係が深かったのは社会的には上層の人たちだ。近代日本では「お嬢さま」と「キリスト教」は関係がある、と指摘する。

国民的な祝祭劇と、悲劇の国民化

 その後の二人の人生航路は大きく異なる。吉見さんは時計の針を巻き戻しながら、解説する。宮内庁は58年11月27日、皇太子と正田美智子さんの婚約を正式発表。そのちょうど一年後の同じ日に全学連が最初の国会突入。つまり、58年11月から翌春にかけては、人々の関心は「ご成婚」に集中した。その半年後の「初の国会突入」からの半年は「安保」に集中した。この二つの出来事の間隔はピッタリ一年。「ご成婚」を追いかけるように「安保」のうねりが高まり、天皇制や日米安保、民主主義についての論議が折り重なる。

 ミッチーブームでも明らかなように、美智子さまの婚約は、国民から大歓迎された。一方で、皇族の中には手厳しい声があった。『近代皇室の社会史』(吉川弘文館)によると、内々に知らされた秩父宮妃や高松宮妃は反対していた。旧皇族女性の1人は、婚約発表当日の日記に書いている。「憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた」(『梨本宮伊都子妃の日記』小学館)。美智子さまのその後の日々が、平たんではなかったことはよく知られている。

 吉見さんは、60年6月15日の樺さんの死は、ミッチーブームとは真逆な形で、当時の国民に大変な衝撃を与えていたことを改めて伝える。18日には東大で「樺美智子さんの死を悼む合同慰霊祭」。会場に入りきれない学生や教職員約5000人が安田講堂前に集まった。茅誠司総長らの弔辞が読み上げられ、式後、遺影を先頭に約6000人が国会に向けて行進する。国会前の約6万人と合流した。23日には全学連主流派による慰霊祭。詩人の深尾須磨子さんが詩を朗読した。24日には日比谷公会堂で国民葬。演出家の千田是也、一橋大の元学長や立命館大の総長、社会党委員長、総評議長らが葬儀委員。芥川也寸志が式典の合奏を指揮した。プロデュースは映画監督の松山善三。この時のものと思われる追悼行進の様子をネットで確認できる。2メートル四方ほどありそうな巨大な遺影を先頭に長列が続く。国会前の祭壇には何万という参列者が集まったという。吉見さんは記す。

 「1958年から59年にかけて正田美智子をめぐって繰り広げられたのが国民的な祝祭劇であったとするなら、その翌年、60年の6月にもう一人の『美智子さん』、樺美智子に生じたのは悲劇の国民化であった」

「警官による絞殺である可能性が高い」

 こうした追悼の儀式でもわかるように、60年安保反対闘争はかなり広範な国民の支持を受けていた。評者は、当時東大生で、のちに公安当局の最高幹部になった人から、「実は私も学生時代は、安保反対のデモに行った」と聞いて驚いたことがある。クラスの9割がデモに参加していたという。

 まだ大学進学率は十数%の時代。女子は一ケタ台の下の方だった。その中でも特に希少な「東大女子」だったのが樺さんだ。全学連の主流派、ブント(共産主義者同盟)の熱心な活動家。すでに逮捕歴もあった。文学部自治会の副委員長も務めていた。やはりブントの活動家だったのちの評論家、西部邁は「死者が出たと耳にしたとき、すぐに彼女に間違いないと直感した」(『六〇年安保――センチメンタル・ジャーニー』、1986年刊)と振り返っている。

 一連の大規模な葬儀や、ベストセラーになった遺稿集『人しれず微笑まん』などを通して、樺さんには「国民的悲劇のヒロイン」「60年安保の生贄」のイメージが定着する。両親も「平凡な娘」「一般学生」であったことを強調していた。そのあたりは2010年に出版された江刺昭子さんの『樺美智子 聖少女伝説』(文藝春秋)に詳しいという。同書には死因についての精密な論証も掲載されているそうだ。吉見さんはそれを読んで、「警官による絞殺である可能性が高い」と確信したという。

 吉見さんはさらに詳しく、社会学者として、ご成婚パレードと安保デモのコースの違い、皇居広場と国会前の違いなども詳しく分析している。

キーワードは「清純」

 先行書からの引用では、安保全学連の指導者だった島成郎(東大医学部出身の精神科医)が書き残した『ブント私史――青春の凝縮された生の日々ともに闘った友人たちへ』(批評社、1999年)の一節が興味深かった。樺さんは当時ブントの事務所に常駐していた。あまりしゃべったりせず、黙々と事務作業をこなす。そんな彼女がある日、事務所を出ようとした島さんを追いかけてきた。「島さんは大人だから相談したいのですが、私、想いを寄せる人がいるのです・・・」。7歳年長の島の方がドギマギして、「一体誰と・・・」と訊ねたら、口ごもるように「Sさんです・・・」といって顔を赤らめたまま逃げるように事務所に入ってしまったのだという。

 今風に言えば「告白」という言葉が思い浮かぶ。現代の女子高生にとっても「樺美智子」が身近に感じられるワンシーンではないだろうか。

 本書は「Ⅰ 戦後一五年目の問い」「Ⅱ いくつもの『声なき声』」「Ⅲ 『政治の季節』の日常感覚」の三部構成。小林トミ、丸岡秀子、石牟礼道子、谺雄二、森崎和江、坂本九、松田道雄らが取り上げられている。美智子さまが石牟礼道子さんと深い交流があったことは、大宅賞受賞のノンフィクション作家、高山文彦さんの著書『ふたり――皇后美智子と石牟礼道子』(講談社)などでよく知られている。J-CASTニュースでも、「故・石牟礼道子さんと美智子皇后の『秘話』」として紹介済みだ。

 ちなみに樺さんの死から3年後、さらにもう一人の「みちこ」に国民は心を奪われる。難病に冒され、21歳の若さで亡くなった同志社大生、大島みち子さんだ。3年間にわたる文通記録『愛と死をみつめて』は160万部の驚異的なベストセラーになった。64年には吉永小百合主演で映画化された。のちの週刊現代編集長、元木昌彦さんは当時この映画を10回以上観たという。

 正田美智子、樺美智子、大島みち子。3人をつなぐキーワードをあえて探せば「清純」という言葉だろうか。それはメディアが作り上げたものだったかもしれないが、時代と人々が「ピュア」なものを求めていた証でもあったという感じがする。

 最後に一つ。吉見さんの論考は極めてよく整理されている。そのまま「NHKスペシャル」にできるのではないかと思った。もうすでに番組になっているのだろうか。それとも、もろもろの事情で制作しづらいテーマなのだろうか。

 BOOKウォッチでは関連で、『評伝 島成郎』(筑摩書房)のほか、西部さんの著作では、『六〇年安保――センチメンタル・ジャーニー』(洋泉社MC新書)、『保守の遺言』(平凡社新書)、『保守の真髄』(講談社現代新書)など。美智子さま関係の学術本では、『近代皇室の社会史』(吉川弘文館)、60年安保の裏方では、『評伝田中清玄』(勉誠出版)なども取り上げている。



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  • 書名 六〇年安保――1960年前後
  • サブタイトルひとびとの精神史 第3巻
  • 監修・編集・著者名栗原彬 編
  • 出版社名岩波書店
  • 出版年月日2015年9月26日
  • 定価本体2300円+税
  • 判型・ページ数四六判・354ページ
  • ISBN9784000288033
 

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