平成から令和になってまもなく一年。本書『近代皇室の社会史』(吉川弘文館)は明治以降の皇室史を「家族」や「家庭」という視点からとらえなおしたものだ。副題は「側室・育児・恋愛」。純然たる学術書なので、女性週刊誌的なミーハーなノリではない。しかしながら、学術書であるがゆえに、かなり思い切ったところまで踏み込んでもいる。平成・令和世代には初耳のような話も多い。
著者の森暢平さんは1964年生まれ。京都大学文学部史学科卒業。成城大学文芸学部教授 。著書に『天皇家の財布』(新潮社)、共著に『「昭和天皇実録」講義』(吉川弘文館)、『皇后四代の歴史』(吉川弘文館)がある。
歴史学者が、近代の天皇や天皇制のことを振り返る場合、たいてい、その政治的な役割を軸に考察することになる。しかし、著者の森さんは、戦前はもちろん日本国憲法下でも皇統の護持、天皇制の維持ということが国家にとって必要なことであるなら、天皇・皇太子・皇孫の婚姻のあり方について、もっと目を向けるべきだとする。
婚姻に自由意思を認めるのか、一夫一婦制か、側室を許容するのか。皇統の護持を最優先するなら、一夫一婦制は採りづらい選択だったはずだが、なぜそこに収斂していったのか。
本書は、皇室を、社会と遊離した特別の存在と考えるのではなく、日本社会の変動と歩を合わせて自らを変動させ、近代家族への接近を図ってきたものと考える。一夫一婦制も、「御手許」での養育も、いわば時代の潮流に沿ったもの、というわけだ。
本書は、「序章 なぜ、皇室が近代家族であることを問うのか」から始まり、以下の構成。
1部・・・睦仁・美子、嘉仁・節子の時代――明治中期から大正前期
第一章 明治期における皇太子嘉仁・節子夫妻と近代家族
第二章 永世皇族制と近代家族化のなかの皇族庶子問題
第三章 大正期皇室における一夫一婦制の確立
2部・・・裕仁・良子の時代――大正後期から昭和戦前期
第一章 大衆社会化のなかの皇太子妃良子
第二章 近代皇室における「乳人」の選定過程と変容
第三章 皇子養育をめぐるポリティクス
3部・・・ 明仁・美智子の時代――昭和戦後期
第一章 敗戦直後の内親王の結婚――「恋愛」への注目
第二章 美智子妃「恋愛神話」の創出
第三章 ミッチー・ブーム、その後――「大衆天皇制論」の再検討
終章 「近代家族」と皇室
この目次を見ただけで、かなりきわどい項目があることが察知できるだろう。特に「1部」にその色合いが強い。森さんは問いかける。
「天皇睦仁(明治天皇)に側室がいたことは、その親王・内親王がすべて庶子であることから明らかである。一方、その孫・裕仁(昭和天皇)に側室がいなかったことは、『牧野伸顕日記』に記されている宮中女官改革の経過などによりまた、明らかであろう。では、その間にいる嘉仁(大正天皇)はどうであっただろうか」
結論として、大正天皇が一夫一婦であったことは先行研究で「おおむね一致する」。ではなぜそうなったのか、というのが著者の問題意識だ。
たとえば「嘉仁および節子(貞明皇后)がともに側室から生まれた庶子である生い立ちから、二人は側室制度の廃止を願っていた」という説について。それに対しては、「嘉仁・節子以前の天皇・皇后のほとんどは側室から生まれた庶子であるから、なぜ嘉仁・節子だけが庶子であるがゆえに側室をやめる『意思』を持ったのか説明不十分である」。大正天皇が病弱だったからという説に対しては、「子どもが得られないほどの病気となったのは大正後期」と退ける。
こうした従来の諸説は、社会全体が近代家族に向かう潮流を考慮に入れない弱点があった、と指摘する。伝統的に側室制(一夫多妻制)をとってきた皇室が変化したとすれば、それは社会の変化の反映だと考え、本書では具体的に「高等女官」の任用、天皇の周囲にどのように女官が配置されたかを分析している。つまり、「天皇睦仁と皇太子嘉仁の女官を比較」することを通して考察している。具体的に当時の女官たちの名前、家格、肩書、源氏名の詳細な一覧表が掲載されている。
本書には、「永続皇族制と山階宮・久邇宮の庶子問題」「北白川宮の庶子問題」「『隠し子』の背景」などという項目もある。いずれも明治時代の話だ。著者は記す。
「明治中期までの上流階層では、側室は『家』存続戦略として当然視されるものであった。正室を持たず、庶子を多く儲けていた山階宮晃・久邇宮朝彦はこうした前近代的な家族慣行を保持し続けていた皇族であった」
明治の皇室典範は庶子の皇位継承を認めていたそうだ。では、宮家皇族についてはどうするか。いろいろ議論があったことも紹介されている。1910年になって「皇室親族令」が制定された。そこでは庶子について、他の皇族と宮内大臣が否認の申し立てができる条文があるそうだ。本書はこうした規制が、庶子抑制に効果を持ったことを認めつつ、それ以上に、「明治期皇室が近代家族化の波のなかにいたことが大きいだろう」としている。
宮家皇族における最後の庶子は北白川宮の第五王女で1895年。明治天皇に最後の庶子が生まれたのは1897年だという。
もっとも、昭和戦前期にも皇族の私生児問題は内々に問題になったことがあるそうだ。主として皇族が「芸者」や「玄人」と関係したことによるという。著者は、皇族が側室を公然と置いていた明治中期までとは、「問題の水準が全く違う」「私生児として秘匿される状況こそ、皇室における庶子排除の帰結であるといえよう」と書いている。
ちなみに明治天皇は1893年から2年間、教育者で歌人の下田歌子を欧米に派遣し、英国を中心とした欧州王室の子女教育を視察させた。下田は96年に皇女教育に関する意見書を提出している。
著者は天皇一家をめぐる図像に注目している。1890年制作の御一家の「錦絵」では、天皇、皇后、皇太子のほかに「女官」が描き込まれている。しかし、98年の家族がそろった「皇室御親子御尊影」では、「これまでの錦絵・石版画には盛んに描かれてきた子どもの生母(睦仁の側室である柳原愛子・園祥子)は描かれず、存在が隠蔽される」。
天皇一家の「家族アルバム」を想起させる「皇室御親子御尊影」からは、皇室が「家族モデル」にもなり、親子が相親しむ一家団らんの近代家族が、次第に人々の理想となっていく時代の変化がうかがえる。しかし、「現実の皇室には、それを目指したくても目指せない天皇睦仁の家族固有の問題があった」と著者は注記する。「睦仁に側室がいること、子どもたちが美子の実子でないことである。このときに登場するのが、皇太子嘉仁とその妃となる九条節子であった」。大正天皇の「側室廃止」は、明治後期に形成されつつあった近代家族像の延長線上にあったというわけだ。
「3部・・・ 明仁・美智子の時代――昭和戦後期」ではJ-CASTニュースの連載記事も参照文献として掲載されている。
BOOKウォッチでは関連で、『エリザベス女王』(中公新書)、『公家源氏――王権を支えた名族』 (中公新書)、『天皇と戸籍――「日本」を映す鏡 』(筑摩選書)、『皇子たちの悲劇――皇位継承の日本古代史』(角川選書)、『新版 古代天皇の誕生』(角川ソフィア文庫)、『宮中五十年』(講談社学術文庫)、『明治大帝』(文藝春秋)、『戦前不敬発言大全ーー落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説』(パブリブ刊)、『建国神話の社会史――史実と虚偽の境界』 (中公選書)なども紹介している。
ちなみに『感染症の近代史』(山川出版社)では、孝明天皇が幕末の1866年12月に疱瘡になり、親王の生母の父、中山忠能が、蘭方医に密かに命じて親王に種痘をほどこしていたことが記されている。同書は「西洋医学の優位性が宮中の世界でも、確実に認知されはじめていたことがわかる」「時勢は親王が種痘をほどこされたように、新しい方向に傾斜していた」と書いている。この親王が、のちの明治天皇だ。
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