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「無症状」の有名患者「チフスのメアリー」知ってる?

病魔という悪の物語

 新型コロナウイルスで、過去に出版されていた感染症関係の本がいくつか再版や増刷されている。本書『病魔という悪の物語――チフスのメアリー』(ちくまプリマー新書)もその一つ。初版は2006年。単なる感染症ではなく、いわゆる「健康保菌者」の問題を扱っている。今回の新型コロナでも「無症状病原体保持者」が注目されているだけに、復刊本の中でも特に意義深い一冊と言えるのではないだろうか。

「特異なチフス患者」

 本書の副題にある「チフスのメアリー」は、医療関係者の間ではよく知られた名前のようだ。彼女を有名にしたのは、「特異なチフス患者」だったから。本人は全く無症状。しかし、結果的に次から次へと感染を広げ、人生の大半を隔離施設で過ごすことを強いられた。

 本名はメアリー・マローン。1869年、北アイルランド生まれ。少女時代に家族とアメリカに移住。ニューヨーク周辺で賄い婦として働いていた。

 1906年、ある銀行家の一家から6人の腸チフス患者が出た。衛生工学の専門家が調査を依頼され、出入りしていた業者らも調べる。事件後にやめた賄い婦が浮上する。彼女は過去10年ほどの間に8つの家に雇われていた。再調査の結果、うち7家族からチフス患者が出ていたことがわかった。この賄い婦がメアリー・マローンだ。

 感染者数は合計22人、うち1人が死亡。本人は無症状なので事態が理解できない。当時はまだ「健康保菌者」という概念が一般的ではなかった。治療する側も手探り状態だった。無理やり検便検査をしたところ、腸チフス菌が見つかった。

マンハッタンに近い隔離島

 彼女はマンハッタンのイースト・リヴァーに浮かぶ小さな島、ノース・ブラザー島にあるリヴァーサイド病院に隔離される。1885年までは無人島。この病院ができて、天然痘や結核など隔離が必要な患者の収容施設になっていた。ブロンクスの岸辺から500メートルほどしか離れていない。摩天楼が見える場所にあった伝染病患者の隔離島だ。

 ニューヨークでは年間3000~4000人が腸チフスになっていた。つまり腸チフス患者は多かった。その中でメアリーの特徴は「腸チフスを体に抱えたまま料理をする女」というところにあった。チフスの「健康保菌者」の第一号ということで注目が集まった。

 当時のニューヨークの新聞はセンセーショナリズムが売りだった。メアリーに「歩く腸チフス工場」「人間・培養試験管」などのニックネームをつけた。彼女は「コミュニティにとっての敵」であり、「一般市民の健康への重大な脅威」と書き立てられる。

 中でも強烈だったのは「ニューヨーク・アメリカン」という新聞の一面を飾ったイラストだった。「チフスのメアリー」という大きな活字。「アメリカでもっとも危険な女」という文言。台所で何かの料理をしているエプロン姿の女性が大きく描かれている。プライパンで転がしているのは卵のような形をしているが、よく見ると小さな頭蓋骨だ。人に死をもたらす料理を平然としている女。このイラストによって大衆の間でメアリーのイメージは決定づけられたという。

名前を変え、行方をくらます

 この少し前、19世紀末は細菌学の黄金時代だった。結核、コレラ、ジフテリア、破傷風、赤痢などの病原菌が次々と発見された。腸チフス菌も見つかり、汚染された水や食物から経口感染すると見られていた。

 こうした伝染病の予防では公衆衛生が有効とされ、生活用水の衛生管理など環境整備が進んでいた。同時に保菌者からの伝染ということにも、注意が払われるようになっていた。それも症状の現れた患者からだけではない。すでに医学関係者の間では、コレラとジフテリアについて「健康保菌者」が指摘されていた。「チフスのメアリー」は、腸チフスでも同じことが起きていることを知らしめる結果となった。

 メアリーは強制隔離を不当だとして裁判に訴えるが、敗訴。その後、料理の仕事につかないことを条件に、島を出ることを許される。しかし、頼りにしていた弁護士も、支えだった恋人も亡くなり、メアリーは名前を変え、行方をくらます。

 1915年になって、ニューヨークのスローン婦人科病院で腸チフスの集団感染が起きる。25人が罹患し、2人が亡くなった。3か月ほど前からこの病院で働いていた自称ブラウン夫人=メアリーが逮捕される。再び、ノース・ブラザー島に送られ、38年死去。2度目の隔離では島生活にも慣れ、途中からは病院のスタッフとしても働いていたという。

「事実」ではなく「歪曲と増幅」

 本書は以下の構成。

 第1章 物語の発端(事件以前のメアリー/チフス患者の発生 ほか)
 第2章 公衆衛生との関わりのなかで(腸チフス/チフスと戦争 ほか)
 第3章 裁判と解放(法的な問題/「チフスのメアリー」の露わな登場 ほか)
 第4章 再発見と、その後(自由になって/恋人の死 ほか)
 第5章 象徴化する「チフスのメアリー」(一般名詞化するメアリー/勝ち馬に乗る歴史 ほか)

 著者の金森修さんは1954年札幌市生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。パリ第一大学哲学博士。専門は科学思想史・科学史。筑波大学、東京水産大学(現、東京海洋大学)、東京大学大学院などで教えた。主な著書に『フランス科学認識論の系譜』『負の生命論』『自然主義の臨界』『遺伝子改造』(以上、勁草書房)、『バシュラール』(講談社)、『サイエンス・ウォーズ』(東京大学出版会)、『科学的思考の考古学』(人文書院)、『科学の危機』 (集英社新書)、『科学思想史の哲学』(岩波書店)、『人形論』(平凡社)。

 メアリーの没後も「チフスのメアリー」は小説、演劇などで生き続けてきたという。大半は「毒婦」として。それらの多くは、「事実」ではなく「歪曲と増幅」を伴う「フィクション」になっている、と金森さんは指摘する。エイズ、エボラ出血熱、SARS、鳥インフルエンザなどを踏まえて以下のように記す。

 「恐ろしい伝染病が、いつ社会に蔓延するかは誰にもわからず、もしそうなれば、電車で隣に座る人が、恐ろしい感染の源泉に見えてこないとも限らない・・・」
 「恐怖感が私たちの心の奥底に住み着き、いつその顔を現すかはわからないような状況が、人間的社会の基本的条件なのだとするなら、未来の『チフスのメアリー』を同定し、恐怖を覚え、隔離し、あざけり、貶めるという構図は、いつ繰り返されてもおかしくはない」

 腸チフス自体は、現在は有効な抗生物質のおかげで治ることが多くなっているという。金森さんは16年逝去。本書で次のように書き残している。

 「もし、あるとき、どこかで未来のメアリーが出現するようなことがあったとしても、その人も、必ず、私たちと同じ夢や感情をかかえた普通の人間なのだということを、心の片隅で忘れないでいてほしい」

 新型肺炎は、日本を含めた東アジアでは下火になっているが、世界的にはまだ予断を許さない状況が続く。そもそも、病気の正体がよくわかっていない。感染者を差別するような動きも一部であったことが報じられている。「無症状病原体保持者」はどの程度の感染力を持っているのか。本書を読みながら、著者の真摯な指摘を、改めて反芻する必要があるのではないかと感じた。

 BOOKウォッチでは新型コロナ関連で、『流行性感冒――「スペイン風邪」大流行の記録 』(東洋文庫)、『陸軍登戸研究所〈秘密戦〉の世界――風船爆弾・生物兵器・偽札を探る』(明治大学出版会)、『復活の日』(角川文庫)、『病が語る日本史』 (講談社学術文庫)、『わかる公衆衛生学・たのしい公衆衛生学』(弘文堂)など多数を紹介している。



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  • 書名 病魔という悪の物語
  • サブタイトルチフスのメアリー
  • 監修・編集・著者名金森修 著
  • 出版社名筑摩書房
  • 出版年月日2006年3月 6日
  • 定価本体760円+税
  • 判型・ページ数新書判・144ページ
  • ISBN9784480687296
 

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