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「ウイルス兵器」・・・日本軍は研究していた!

陸軍登戸研究所〈秘密戦〉の世界

 新型コロナウイルスの拡大が止まらない。とりわけ、感染源がはっきりしないことが不気味だ。当初は野生動物由来と言われていたが、否定するような見方も出ている。念頭に置いておきたいのが「人工的」につくられた可能性だ。2020年3月14日には、中国が「米軍持ち込み説」を言い出したので、米国が抗議したとの報道もあった。

 本書『陸軍登戸研究所〈秘密戦〉の世界――風船爆弾・生物兵器・偽札を探る』(明治大学出版会)は戦前の日本で行われていた「秘密」の軍事研究について解説したもの。その中には生物兵器の一つ、ウイルス兵器の研究もある。以前から気になっていたので、この機会に手に取ってみた。

明治大生田キャンパスの二倍の広さ

 小田急線の生田駅を降り、10分ほど歩くと、明治大学生田キャンパスにたどりつく。そこにはかつて「陸軍登戸研究所」があった。

 前身は1919年設立の陸軍科学研究所(東京・新宿)。その中に27年、「秘密戦資材研究室」がつくられ、37年、生田に「登戸実験場」ができた。諜報・謀略のための兵器開発が主な任務。化学戦の準備もした。42年に「第九陸軍技術研究所」と名前を変え、終戦まで存続した。

 施設の空撮写真を見ると、かなり広大。東京ドーム9個分だという。現在の明大生田キャンパスの約2倍。そこに約100棟の建物があった。ちっぽけな施設ではない。

 類似施設に、「関東軍防疫給水部本部」(通称731部隊)がある。BOOKウォッチで紹介した『731部隊と戦後日本』(花伝社)によると、旧満州ハルピン近郊に本部があった。細菌戦など生物兵器の研究を行い、中国人捕虜などを「マルタ」と呼んで人体実験に使っていたとされる。中国大陸の一部では実際にペスト菌などをばらまき、中国側によれば少なくとも1万5千人が犠牲になったという。こちらも小さな組織ではない。当時の東京大学と同じ規模の予算が与えられていた。約3600人が働いていた。

 ちなみに現在の明大キャンパスは戦後にできたので、この研究所とは無関係だ。しかし、一角には「生田神社」という小さな社が今も残る。1943年の建立。当時は「弥心神社」と言われていた。祭神は「八意思兼神」。天照大神が閉じこもった天の岩戸を開けるアイデアを提供した神様だという。知恵の神、発明の神ということで、研究所がやろうとしたことを体現していた。

 キャンパスの一角には、戦前の研究所の資料などを集めた「登戸研究所資料館」がある。本書は、その資料館の内容を案内しつつ、研究所がやっていたことを振り返っている。

風船爆弾に牛疫兵器を詰める

 登戸研究所では最盛期に約1000人が働いた。全体は四科に分かれていた。資料館は順にその内容を解説している。敗戦翌日にはいったん当時の全資料が焼却されたというが、後年、手記を残した幹部もいた。新たに発見された資料もあった。それらも参照しながら資料館ができた。

 第一科では風船爆弾、第二科では生物兵器などの研究が行われていた。この二つは連動している部分があった。風船爆弾に生物兵器を搭載し、ばらまこうとしていたからだ。

 生物兵器は動物用と植物用の二種類が研究されていた。動物用は牛疫ウイルスの兵器化。牛疫とは牛を死亡させる伝染性の強い感染症だ。満州で採取した牛疫ウイルスを培養し、粉末化して風船爆弾に入れて米国に送り込み、畜産業に打撃を与えることを狙った。実際の実験は朝鮮総督府家畜衛生研究所がある釜山郊外で行われ成功、1944年9月の検討会で20トンの牛疫粉末病毒を風船爆弾に搭載すれば、米国の畜牛に大打撃を与えることが確認された。しかし、作戦は実行されなかった。すでに戦況が悪化、実際に使った場合、逆に米軍に生物化学兵器で報復されることを恐れたためだ。

 ちなみに風船爆弾と言うと、名前からおもちゃのように思われがちだが、実際には直径10メートル、総重量182キロ。高度保持装置も付いた当時のハイテクだ。

 植物用兵器は、小麦・稲・トウモロコシを対象としていた。こちらは細菌兵器。実験は中支那派遣軍総司令部と連携し、中国湖南省洞庭湖の西側で行われたが、成功しなかった。

 化学兵器や生物兵器は1925年のジュネーブ議定書で国際的に禁止されていた。しかし、当時の取り決めでは、相手国が使用した場合に報復で使うことは禁止されていなかったという。本書には登戸研究所以外の日本軍の細菌戦部隊と、ノモンハン事件など実戦での使用例も掲載されている。

「支那の捕虜」を使って人体実験

 登戸研究所では対人用の毒物兵器の研究も行われていた。無色・無臭・無味・水溶性の新種の独創的な毒物の研究だ。「人体実験」も行われた。実際に開発されたのが「青酸ニトリル」。実戦でどのように使われたかはわかっていない。

 米軍は戦争中から登戸研究所の存在をつかんでいたようだ。戦後すぐに調査に入ってきた。関係者多数が尋問されている。戦犯とされることを覚悟した幹部もいたが、訴追されなかった。731部隊と同じく、情報を米軍に提供することで訴追を免れたと見られている。実際に戦後は米軍に勤務したり、アメリカに渡ったりした人も少なくなかったという。

 1948年に起きた「帝銀事件」では、「登戸」がクローズアップされた。謎の毒物が使用されていたからだ。警察は登戸研究所の関係者も調べた。担当した捜査員が手記を残している。その中で、当時の「登戸」の部門責任者が語っている。人体実験で「支那の捕虜」を死亡させた時の心境だ。「初めは厭であったが馴れると一ツの趣味になった(自分の薬の効果をためすために)」。

 731部隊(石井部隊)には東大や京大医学部出身者が集まっていた。「登戸」にも化学・薬学・医学・農学・機械工学など理系の幅広い分野の俊英が集められていた。

 そういえば中野学校でも類似の極秘研究などが行われていた。『僕は少年ゲリラ兵だった――陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊』(新潮社)で当事者の一人がNHKの取材に語っている。京都大出のインテリ。当時の教本をめくり、あるページで目を止めた。「致死量」と書いてある。「どれだけの薬を使えば、人を殺せるかという研究です。サリン事件みたいなことだよ。私ら、謀略部隊だから、悪いこと、何でも許されるという教育だから」。

事実は事実として残す

 本書で意外に思ったのは「登戸」の場合、秘密研究に従事した人の一部が積極的に記録を残そうと試みたことだ。

 最も重要な手記を残した伴繁雄技術少佐は第二科第一班の班長だった。晩年になって「戦争の隠された一段面について、それを正しく伝えることを意義ある使命」と思い立ち、「歴史の証人」として手記を書き始める。人体実験のことも書いている。1993年11月に書き上げ、直後に亡くなった。2001年になって『陸軍登戸研究所の真実』として出版された。

 登戸では市民や高校生による調査活動や保存運動が大きな力になったそうだ。呼応するように元所員らも動き出す。登戸研究所に勤務していた人々の有志の団体は2005年、明治大学の学長あてに資料館設置の要望書を出している。「当時は秘密の研究所であっても事実は事実として残し、歴史の審判を受けるべきだと考えています」。こうした流れが2010年の資料館開設につながったようだ。

 生物兵器や化学兵器は、戦後も現在に至るまで、局地戦や内戦などのたびに使用が取りざたされている。ベトナム戦争の枯葉剤は有名だ。BOOKウォッチで紹介した『猛威をふるう「ウイルス・感染症」にどう立ち向かうのか』(ミネルヴァ書房)によると、監修者の東京大学医科学研究所感染・免疫部門ウイルス感染分野教授の河岡義裕さんらのグループが、アメリカでインフルエンザウイルスの合成に成功したときは、CIAの関係者が訪ねてきたという。医療目的の研究に対しても、諜報関係者は常に神経をとがらせているという証だろう。

 BOOKウォッチでは、今回の新型肺炎との闘いを「新しい戦争」と見る視点で『中国共産党と人民解放軍』 (朝日新書)や、『超限戦――21世紀の「新しい戦争」』(角川新書)も紹介している。『日本の島 産業・戦争遺産』(マイナビ新書)では、戦時中に毒ガスを製造していた瀬戸内海の島が今はウサギの島として有名になっている話なども伝えている。

  • 書名 陸軍登戸研究所〈秘密戦〉の世界
  • サブタイトル風船爆弾・生物兵器・偽札を探る
  • 監修・編集・著者名山田朗、明治大学平和教育登戸研究所資料館 編
  • 出版社名明治大学出版会 発行、丸善出版 発売
  • 出版年月日2012年3月30日
  • 定価本体1800円+税
  • 判型・ページ数A5判・288ページ
  • ISBN9784906811007

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