新聞記者には、やや風変わりな人物が少なくない。本書『アロハで猟師、はじめました』(河出書房新社)の著者、近藤康太郎さんもその一人だ。東京から地方に移り住み、記者生活のかたわら米作りに挑戦、さらに狩猟にまで手を広げている。
本書はその体験記、というわけだが、内容は単なる体験記にはとどまらない。生き物を殺すということはどういうことか。いのちとは、人間とは何か。文明とは・・・。人類史をさかのぼりながら哲学的思索を深めている。それが本書のもう一つの読みどころだ。
近藤さんは1963年生まれ。東京・渋谷で育った生粋の都会っ子だ。アロハシャツを好む。朝日新聞社入社後、「AERA」編集部、文化部、ニューヨーク支局、長崎県諫早支局などを経て、現在大分県日田支局長。著書に『朝日新聞記者が書いた「アメリカ人アホ・マヌケ」論』(講談社+α新書)、『リアルロック』(三一書房)、『おいしい資本主義』(河出書房新社)など。共著に『成長のない社会で、わたしたちはいかに生きていくべきなのか』 (徳間書店)がある。
花形の文化記者であり、海外勤務も経験した近藤さんはなぜ田舎記者に転身したのか。それは単純な理由からだ。
出版不況で、書籍が売れない。雑誌も消える。新聞社も将来どうなっているかわからない。しかし、書く仕事を続けたい。そのためには、自分で食うぶんぐらいの米は、自分でつくれるようにしたい。そう思ったのがきっかけだ。
地方への転勤希望を出し、土地カンもなければ、まったく知り合いもいない長崎県の諫早に赴任。そこで休耕田を借りて毎朝1時間の作業で米作りを始めた。2014年のことだ。その様子を断続的に朝日新聞全国版の生活面で報じたところ、これが本人も予想しなかった大反響。どんどん深みにハマった。
農山村では野生の鹿やイノシシが増え、獣害が広がっている。近藤さんの田んぼ周辺の農家も悩んでいる。そこで、ご近所のお役に立とうと、第一種銃猟免許や銃所持許可を取得、「鉄砲撃ち」にもなる。地元の有害鳥獣駆除事業者にもなった。
本書でいくつか驚いたことがあるが、一つは銃の免許を取るのが結構大変だということ。技術的なことはもちろん、法令の試験もある。加えて、本人の面接はもちろん、職場や近所の聞き込みも行われ、素行が調査される。銃と銃弾の保管庫はそれぞれ別の部屋にするとか、細かい規制がある。近藤さんは、以下のように結論付ける。
「国家は本質的に『暴力の独占装置』という面を持つ。だから国家は、国家以外が暴力=武具を持つことを極端に恐れるし、禁じることになる」 「警察の銃管理が、極めて厳重かつ細心で、規制だらけということの底流には、暴力の独占という、国家の無意識的な生存本能が働いている」
猟師は「縄張り」が財産だという。苦労して猟銃免許を取得しても、初心者はどこでどうやって何を撃てばいいのか、それが皆目わからない。簡単には教えてもらえない。なぜかと言えば、猟師はみなライバル。けものの通り道や、鴨やキジがえさを食う場所、シカが山にこもって寝る場所など、経験のある猟師は知っているが、それは長い時間をかけて蓄積した自分だけのデータベース。地元の猟友会会長に相談すると、「3年は弁当持ち」だと言われた。雑用係をやれというのだ。
諫早干拓地は全国でも1、2を争う鴨の猟場だ。銃を手にした近藤さんは真冬の夜明け前、毎日のように足を運んだ。しかし、鴨は決して射程内には近づいてこない。素早く姿を隠す。近藤さんの動きを察知しているのだ。せっかく苦労して免許を取得したのに、あまりに情けない。空に向けて空砲の一発でも打ちたい衝動に駆られたという。
その後、幸運にも狩猟の「師匠」が見つかる。60代後半。海辺でアウトドアショップをやっている人だ。狩猟歴40年以上。国内はもちろん海外にも遠征している。銃の構造や扱いは銃砲店以上に詳しい。人づてに紹介され、教えを受ける。師匠の教育は、鴨から始まり、大型獣にまで広がる。必要に迫られて、近藤さんは罠を使って猟をする「罠猟免許」も取った。
本書のハイライトは、仕留めた鹿にとどめを刺し、持ち帰って解体するシーンだ。ふだんから近藤さんが何かと面倒を見ている他社の若手記者らに手伝ってもらう。現場から鹿を軽トラックで運んでくるだけでも一苦労だった。ガレージが簡易解体場に早変わり。ブルーシートを張って、作業が始まる。まず、鹿の血抜き。そのあと、みぞおちにナイフを入れ、下腹部に向かって薄い皮一枚だけを剥ぎ取る。さらに腹を裂き、恥骨を小ぶりのノコギリで切る。そして内臓を順に取り出す。鹿の体を上下さかさまにし、後ろ足を天井からぶら下げて首を切り落とす。血みどろの仕事だ。
「ライター稼業を一生続けるために朝だけ百姓をしようと、東京から地方に飛んだのは五年前のことだった。そのとき、よもや自分が、血まみれの鹿の頭を両腕に抱きしめているとは、想像もしていなかった」 「しかしこれが、これこそが人生ではないのか。五年後の自分が、まったく予想もしていなかったものになる。変えられてしまう。五年後の自分の姿が想像できない。これが生きる醍醐味でなくてなんであろう」
新聞記者になって本も出版した。一時は海外にも住んだ。人生はそれなりに変化があった。しかし、猟師ほど自分を変えた体験はなかった、別の自分になってしまった、とつぶやく。
これはもちろん、生き物の命を奪う、ということに起因する。「アロハで猟師」は新聞でも一部連載していたので、読者から批判もあったという。では、狩猟は悪で、家畜の肉を食うことは善なのか。養豚場の雌豚は、向きも変えられないような狭い檻に押し込まれ、繁殖期をすごす。産卵鶏のオス雛は、性別が分かると直ちに生きたまま機械ですりつぶされ、他の動物のえさになる。
猟師になったことで、命の重さを自分の手で抱き上げて実感する。生と死について、以前よりも深く考えることが多くなったという。本書ではドストエフスキーから始まって、ニーチェ、ボードレール、大岡昇平、太宰治、金子みすゞらの言葉が引用されている。
田舎暮らしで起きた予想外の変化についても強調されている。これまでの都市生活では、モノは買うものだった。ところが、田舎では物々交換が可能だ。近藤さんも、収穫した米や獣肉を、商品として売るわけではない。知り合いにおすそ分けすると、後から別のモノで返ってくる。
すべてのモノは商品であり、貨幣が媒介し、値札が付いていると思い込んでいたら、そうではない社会がまだ残っていた。米作りや狩猟が近藤さんに教えた予想外の快感だった。
要するに、自分が労働し、生産した結果が、自分の目に見える範囲で等価の価値に交換される。近藤さんの「米」も「獣肉」も、その流通に市場が介在していない。だから心地よいというわけだ。
本書にはマルクスも引用されているが、評者はマルクスの「疎外論」を思い出した。資本主義社会では、すべてが商品になり、生産した人間=労働者は疎外される――。
近藤さんの労働は、「疎外」を免れているからこそ心地よいのかもしれない、と思った。
BOOKウォッチでは、近藤さんの『おいしい資本主義』韓国版出版や、『消えた山人――昭和の伝統マタギ』(農山漁村文化協会)、『ニッポンの肉食』(ちくまプリマー新書)、『ジビエの歴史』(原書房)、『日本のシカ』(東京大学出版会)なども紹介している。
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