読むべき本、見逃していない?

半世紀前の庄内に、理想郷はあった!

黒川能

 毎年、旧正月にあたる2月1日と2日、山形県の庄内地方、黒川村(現・鶴岡市櫛引町黒川)で伝統芸能「黒川能」(国の重要無形民俗文化財)が行われる。いまは全国的にも知られるようになったが、初めてカメラ取材が入ったのは1964年(昭和39年)のことであった。

 東京オリンピックが開催されたこの年、雪国の「秘事能」として知る人ぞ知る存在だった「黒川能」の取材を敢行したのは、当時、平凡社の雑誌「太陽」の新人編集者、船曳由美さん。それから幾星霜、この祭りを哀惜込めて描いたのが本書『黒川能』(集英社)である。

第一級の民俗学的な記録

 本書は昨年(2019年)第17回開高健ノンフィクション賞の最終候補作品になり、受賞を逸したが、「第一級の民俗学的な記録」、「資料としては一級。残す意味は絶対にある」などと評価された。

 祭りと書いたが、神事である。メインの王祗祭は、春日神社の御神体「王祗様」を迎え、能5番、狂言4番などを夜を徹して披露する。翌日にも神事があり、ふたたび能が奉納される。幼いわらべから少年、若者、長老まで、年齢ごとに場と役割があるという。

 この2日間だけでなく、「黒川能」を中心に一年の生活サイクルが回っている村の暮らしが丹念に描かれている。そこに本書の記録的な価値があるが、正直言って盛り上がりには少し欠ける。ノンフィクションと呼ぶにはためらいがある。

 むしろ、評者が面白く読んだのは、村人に長期間にわたり密着取材し、「権治郎(ゴンジロー)家の姉(アネ)ちゃ」と呼ばれるようにまでなった若き日の船曳さんの姿である。

酒吞童子の宴が待っていた

 平凡社に入社して3年目。「太陽」の特集に祭りや伝統芸能を取り上げようと思った。先輩が農民詩人、真壁仁の詩集を貸してくれて、「農民の伝統芸能といったら、『黒川能』につきます」と言ったのがきっかけだった。

 しかし、国の文化財保護委員会の委嘱で、日大の映画学科のグループが王祗祭の様子を取材したことはあるが、民間に撮影を許可した例はないという。逡巡したが、東大のゼミで船曳さんは黒川村近くの村を訪れ、社会調査をしたことがあった。真壁さんに手紙を書き、紹介状をいただいた。カメラマンの薗部澄さんと村を訪れると、「酒吞童子の宴が待っていた」。

 戦争中に南方でかかったマラリアの後遺症で、酒をたしなめない薗部さんに代わり、船曳さんが盃を重ねた。酒ばかりではない。「鮭の煮付に鯨のカンヅメ、菊の酢漬け、なめこのおろしあえ、吸物、あんころもち......番茶に煎茶......」。饗応はつづいた。

 気難しいと言われた能太夫の家に真壁さんの書の軸があった。

 
 「しろき面の翁 粛々と舞ひぬ
  くろき面の翁 嬉々と舞ひぬ」

 村人の真壁さんへの尊敬の念を感じた。そして、とにかく村へ通おうと何度も足を運んだ。

 1年間の取材が終わり、1966年1月、「太陽」2月号に特集「雪国の秘事能」が掲載されると大きな反響を呼んだ。発売直後の2月1日の王祗祭には、マスコミ、学者、アマチュアカメラマンが村に殺到した。撮影解禁と思ったのだ。「ヘイボンシャの娘っ子」がやり玉に挙がった。

 その後、1年に70人に限り抽選制、さらに入場料を取るなどして、混乱を回避した。船曳さんはこう書いている。

 「自らの祭りを持たぬ者が、他人さまの御神事に押しかけ、共有できると思う不遜さ。もとより私とて同じであるゆえに、顔から火が出る思いである」

 しかし、外部との交流はさまざまな人との回路を拓くことになった。観世寿夫さん。観世さんは「安宅」の舞囃子を春日神社で奉納した。野村万蔵さんらも黒川を愛した。

 かつて1日目は村民の自宅で持ち回りで行われたが、近年は公民館で行うことが多いという。ちなみに黒川能は王祗祭のほかにも年に数回鑑賞することが出来る。

 船曳さんは、「半世紀前の庄内に、理想郷はあった」と書いている。

当時のメモなしで書いた

 ところで、開高健ノンフィクション賞の選評で、映画監督の森達也さんは「選考会を終えてから、取材当時のメモは残されていないことを聞かされた。ほぼ記憶と現時点での確認(存命している村人たちに記憶の照合をしたという)によって本書は構成されている。驚嘆した。明らかに突出した才能だ。次作を期待する」と書いている。

 船曳さんは85年に平凡社を退社。86年集英社に入社。プルースト『失われた時を求めて』(鈴木道彦訳)などのシリーズを担当。99年に退職。著書に母親の生涯を描いた『一〇〇年前の女の子』(講談社、その後文春文庫)がある。

 あとがきに取材当時の写真が載っている。これなら村人に「アネちゃ」と親しまれたであろうと納得する。純粋さと好奇心、愛嬌に満ちた表情が輝いている。

  • 書名 黒川能
  • サブタイトル1964年、黒川村の記憶
  • 監修・編集・著者名船曳由美 著
  • 出版社名集英社
  • 出版年月日2020年1月12日
  • 定価本体3600円+税
  • 判型・ページ数A5判・389ページ
  • ISBN9784087890136

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