ノンフィクション作家の澤地久枝さんが新著を出したのかと思ったら、そうではなかった。本書『昭和とわたし 澤地久枝のこころ旅』 (文春新書)は、近現代史を掘り起こしてきた澤地さんの既刊書から、エッセンスを集めたアンソロジーだ。澤地さんの人となり、仕事の全容を手軽に再認識することができる。
類書に、半藤一利さんの『歴史と戦争』 (幻冬舎新書)がある。半藤さんの過去の膨大な著作から、エッセンスを抜きだし、年代記風にまとめ直したものだ。この本を担当したフリーの編集者から、澤地さんについても同じような本を出させてもらえないかと、人づてに申し出があった。それが、本書のきっかけだ。
澤地さんはすでに『歴史と戦争』を読んでいた。その感想は「半藤さんはみごとな仕事をされたな・・・わたしのやった仕事など、時とともに消えてゆく」。
というわけで、気ののらない返事をしたのだが、そこでおしまいにならなかった。この編集者はすでに澤地さんの著書の大半を読み終えていた。結局、「望外の展開」になった、というのが本書だ。
半藤さんも澤地さんも1930(昭和5)年生まれ。同時代を生きた二人だが、経歴には大差がある。半藤さんは旧制高校から東大に進み、文藝春秋に入社。『文藝春秋』の編集長などを務めた。妻の祖父は夏目漱石だ。一方、澤地さんの父は大工。母は内職。祖母は行商。4歳の時に一家で満州に移住し、終戦後は一年間の難民生活を経てやっとのことで帰国。その後も働きながら定時制高校や早稲田大学の夜間部で学んだ苦労人だ。和服を端正に着こなす姿からはちょっと想像できない。
こうした経歴の違いが、本書にも色濃く投影されている。ゆえに本書は単にノンフィクション作家が昭和史を振り返っているだけではない。その昭和の荒波にもまれ、精いっぱいに生きた「澤地久枝」というひとりの女性の一代記にもなっている。自身の人生体験と、昭和という時代が折り重なり、読者の共感を深める構成だ。
父親は日本での生活に行き詰まり、満州に渡った人だった。満鉄の社宅に住んだが、植民地では階級がはっきりしている。社宅は4ランクに分かれ、澤地さん一家は最下層の4軒が一棟になった家。さらにその下に中国人の住宅があった。といっても、日本でいえば大学を出たような上級の人たちだ。配給も、日本人には米と砂糖が配られるが、中国人には砂糖がなかった。「満洲が中国人のためのものであり、理想郷を目ざしたという論をわたしが肯定できない理由の一つは、食糧配給の実態を知っていたということにもある」と書いている。
やがて敗戦。ソ連兵がなだれ込んでくる。3、4人の兵士が銃を手に室内を物色し、玄関わきの物置の奥に隠れていた澤地さんを見つけた。手が伸びてくる。澤地さんは抵抗し、母がむしゃぶりつくように大きな男の体にとりついた。男はあきらめ、それ以上の被害はなかった。(『私のシベリア物語』より)
満州で約1年間の「棄民」生活を送り、昭和21年9月、満16歳の誕生日を迎えるころに帰還船で博多港に着いた。船上検疫を終えなければ上陸できない。幕一枚ひかれていない甲板上で、実験動物のようになって、検閲官の前にうしろむきで下半身をさらす。ガラス棒で検便用の便をとられたときに「最後の『人間の誇り』ともいうべきものが崩れ去っていった」と回顧している。
10月、もらい火で火事に遭い、満州からリュックで背負ってきたものを全部失った。
父は41歳。無一文。重度の黄疸だったが、病身にムチを打っていた。ゼロから生活を立て直さなければならない。一家にとって日本は完全な異郷だった。引揚者に対する冷たい視線。戦後の飢える日本に外地から戻ってきた同胞は余計者だった。一間のバラックから新生活が始まる。板床にゴザを敷き、壁は焼けトタンに進駐軍放出の段ボールを貼っていた。夜になると、両親がこっそりどこかに出かけている。焼け跡に散らばる窓ガラスの破片を集めに行っていたのだ。高熱で溶かすと、再生が可能だから売れる。それが澤地さん一家の、戦後の貴重な再出発資金となっていた。
焼け跡の日本では「リンゴの唄」が大ヒットしていた。歌っていた並木路子さんの父は南方で乗船が撃沈され、行方不明。長兄は海軍に応召して消息が途切れ、次兄は中国戦線で戦死。母は東京大空襲。隅田川に飛び込むまでは並木さんと手をつないでいたが、3日後、遺体で見つかった。澤地さんは記す。「並木路子が背負っていた戦争の影がなかったら、総数約百万枚という大ヒットになったかどうか疑問である」(『忘れられたものの暦』より)。
これは、かつては良く知られていたエピソードだが、最近はどうなのだろうか。「リンゴの唄」を聞いて、並木さんの当時の状況を想起できる日本人は今どれくらいいることだろう。
澤地さんは9歳のころに3歳の弟を、13歳のころに0歳の弟を亡くした。15歳のころには、北朝鮮にいた叔父一家が敗戦を知って自決している。妻子を抱いた状態で爆弾破壊筒を使ったという。「短い導火線を火が走ってゆくのをじっと待っていた瞬間、なにを考えていたのだろうかとふっと思う日がある」(『わたしが生きた「昭和」』、『ぬくもりのある旅』より)。
戦争に翻弄された澤地さんは、戦争にこだわる。そこから多数の名作が生まれた。『妻たちの二・二六事件』、『滄海(うみ)よ眠れ ミッドウェー海戦の生と死』、『昭和史のおんな』、『もうひとつの満洲』などなど。戦後をテーマにしたものでは『密約―外務省機密漏洩事件』などもある。
本書では君が代や昭和天皇の戦争責任などについても踏み込んでいるが、戦後生まれが驚くのは次の話ではないだろうか。昭和20年3月のことだ。
「『国民勤労動員令』公布で『中等学校以上の授業停止、勤労動員専念』の国策が実施に移されます。私はこの勤労動員の対象となった一人です。女子供のみさかいなく、総てをあげて戦争一色の強硬策を通してなにを守ろうとしたのか、軍人や政治家が考えたことを私はいまも理解できません」(『いのちの重さ――声なき民の昭和史』)
授業停止、つまり政府が教育を放棄する。学生が学校で学ぶことができない。どのようにして次代を担う人材を育てようとしていたのか。今から考えると、あまりにも馬鹿げていて確かに理解不能だ。
本書は、「わたしの満洲」「棄民となった日々」「異郷日本の戦後」「もの書きになってから」「心の海にある記憶」「向田邦子さん」の6部構成。
折々で出会った人たちの思い出などもちりばめられている。特に『レイテ戦記』の大岡昇平さんについてはページを割いている。
戦争について書き続けた大岡さんは、フィリピンの苛酷な戦場体験者だった。部隊のほとんどが死んだ。「自分は生きて帰ってきたけれども、帰ってこなかった大勢の人間に一人一人かけがえのない人生があった」と語るとき、たいてい絶句し、大粒の涙を流したという。そういう大岡さんの姿を澤地さんは何度も見た。
澤地さんは書いている。「わたしがやろうとしてきたことは、男女の別を問わず、時間が忘れ去り、歴史の記述からぬけ落ちた人びとをささやかながら書きとめる仕事であった」。それは同時に「一人一人のかけがえのない人生」に涙する大岡さんの姿にも重なる。
昭和が平成になり、さらに令和になって、戦争を体験したうえでその苛烈な実相を書き残した作家やノンフィクション作家はどんどん亡くなっている。澤地さんは今や貴重な最後の一人になりつつあるということを本書を読んで痛感する。
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