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なぜ徳川家康は「神様」になったのか

徳川家康の神格化

 初詣の季節。多数の神社がある中で、ちょっと毛色が変わっているのが東照宮だ。日本の神様は神話ルーツが大半だが、ここで祀られているのは徳川家康(1543~1616)。なんと歴史上の人物だ。どうして家康は神様になってしまったのか。

 たまたま『徳川家康の神格化』(平凡社)という本を見つけた。2019年10月に刊行されたばかり。「新たな遺言の発見」という魅力的な副題付きだ。

秀吉が先に豊国大明神になっていた

 著者の野村玄さんは1976年生まれ。大阪大学大学院文学研究科准教授。専門は日本近世史。『日本近世国家の確立と天皇』『天下人の神格化と天皇』などの著書がある。気鋭の研究者のようだ。

 結論から言うと、家康が神になったのは豊臣秀吉の影響が大きい。本書は次のように記す。

 「天下人の神格化に関する直近の先例が豊臣秀吉のみであったことは事実」
 「すなわち、もし当時、天下人家康の神格化が比較的早い段階から現実味を帯びて検討されていたならば、秀吉の例を意識しないことのほうが想定しにくい」

 家康側近の僧は、家康が亡くなる直前に太政大臣への任官を進言している。背景には「現任の太政大臣だった秀吉が豊国大明神として祀られた例を意識した可能性」があるという。野村さんには『豊国大明神の誕生』(平凡社)という著書もあるので、得意の分野だろう。

 たしかに秀吉は1599年、「豊国大明神」という神号で祀られた。ところが1615年に豊臣家が滅亡すると、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪される。豊国神社も徳川幕府により事実上廃絶された。家康は豊臣再興の芽を徹底的につぶしたのだ。

 このことは、家康没後に神号を決める際にも参照された。「大明神」と「大権現」の二案があったが、「大明神」は豊臣で使われている、豊臣は滅亡しているので、「大明神」は良くない、「大権現」にすべきだということになったようだ。こうして家康は「日光大権現」になる。

 歴史上の人物の神格化ということについて、時代をさかのぼれば平将門や菅原道真が思い浮かぶ。ともに非業の死を遂げており、その怨霊による祟りを鎮めるということで神社がつくられたといわれている。秀吉や家康とはケースが異なる。

イエズス会がトップシークレット報告

 ところで、いったい家康はどのような遺言を残していたのか。諸説あったようだが、本書は「新発見」の遺言を紹介している。

 「亡くなった後は、必ず神力をもって子孫を守り、国家を鎮撫するであろう。藤原鎌足の子孫が繁栄している例に準じて自分を斂葬し、まず久能山に葬り、榊原清久を神職とし、頼将の祭祀を受け、三年後、あらためて下野日光山へ移すべきである。その祭式は両部習合神道により、よろしく天海の指麾に任せるべきである」

 家康は、藤原氏を高く評価していた。徳川家もその先例にならいたいという思いが強かったようだ。信長、秀吉という天下人が脆くも崩れたことも頭にあったに違いない。本書は、徳川秀忠(家康の三男、二代将軍)が、家康が最期を迎えた場合、神道によって神として祀ると決断した、と記す。このころイエズス会がローマの総長に送った公式報告書に、そのあたりのことが明確に書かれている。

 「太閤(豊臣秀吉)は、すでに神、すなわち、新しい軍神を意味する新八幡と呼ばれる偶像として荘厳に奉られていた。そのため、将軍(徳川秀忠)は彼の父親(家康)も神に整列させたいと望み、その起源が太陽にさかのぼる日本の神の一人である日本殿(東照)大権現と命名した」

 イエズス会が実に精密に日本国内のトップシークレットに通じていたものだと改めて驚いてしまう。

後水尾天皇が神格化を勅許

 神号や神位などは宮中から賜ることになっていた。本書では徳川サイドが、その手はずに苦労したことなども記されている。宮中で後陽成上皇が疑義を表明していたからだ。しかし1616年7月13日、後水尾天皇(在位1611~29)が家康の神格化を勅許し、権現号の宣下も容認した。思い返せば当時は下記のように、朝廷と幕府の力関係が劇的に変わる過渡期だった。

 ・禁中並公家諸法度で天皇ならびに公家の行動を規制する。
 ・朝廷が家康に東照大権現の神号を勅許し、朝廷の許可のもとで家康の神格化を進める。
 ・朝廷の勅許により日光東照社が宮号を得る。
 ・紫衣事件で幕府の法が勅許(天皇の意思)より優越することを示す。

 『後水尾天皇』(岩波書店)などによれば、後水尾は家康の意向によって天皇になった人だった。先代の後陽成にとって後水尾は、意中の人物ではなかったといわれる。そんなこともあり後陽成は難色を示したのだろう。

 後水尾の皇后は徳川和子。秀忠の娘(五女)で徳川家康の内孫だ。東福門院として知られる。いわば「徳川」と妥協を強いられたのが後水尾だった。晩年、修学院離宮を造営したが、おそらく幕府の資金的サポートがあったことだろう。このあたりを考えると、家康神格化は、家康存命中に後水尾を天皇とした時点にすでに布石が打たれていた感じがする。

一次史料を重視

 本書に書かれているわけではないが、その後の江戸時代をざっくり振り返っておこう。宮中との関係では、徳川優位が続く。江戸の真北の日光に鎮座する東照宮は、江戸幕府の新たなる守り神となっていた。ところが幕末の尊王攘夷で形勢逆転、明治維新へと突き進む。戊辰戦争の最中には、一部討幕派が東照宮を焼き討ちにしようとした。徳川幕府のシンボルだから当然かもしれない。それを制止したのが、同じく討幕派で土佐藩兵を率いて大活躍した板垣退助だったという。なぜなら東照宮には建立時に後水尾が書いた御親筆の扁額があったからだ。家康が後水尾を囲い込んでいたことが奏功した。さすが家康だと感心する。

 一方、秀吉の豊国神社は明治になって天皇の勅命により再興された。秀吉は時の後陽成天皇との協調・共生を重視した人だった。家康とは、天皇との関係が異なる。推測するに豊国再興は、そうした事情を知ってのことだろう。家康、秀吉、天皇の微妙な関係を改めて知る。

 本書は新書ではなく選書や叢書に類する。つまり純然たる学術本だ。全体としてかなり専門的だが、家康に関心がある人には好著だ。「一次史料やそれに準じる史料を三次史料で否定・論評することはできない」ということを基本スタンスとしている。

  • 書名 徳川家康の神格化
  • サブタイトル新たな遺言の発見
  • 監修・編集・著者名野村玄 著
  • 出版社名平凡社
  • 出版年月日2019年10月23日
  • 定価本体1800円+税
  • 判型・ページ数四六判・290ページ
  • ISBN9784582477467
 

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