正月の帰省帰りに、この記事を読んでいる人も多いだろう。お盆と正月は鉄道会社や航空会社の稼ぎ時だ。そして、ふだん交通機関を利用しない人が乗る時期でもある。本書『ライフスタイルを変えた名列車たち』(交通新聞社新書)には、かつて日本を走った名列車(一部、現在も運行)が数多く紹介されている。
著者の原口隆行さんは、1938年東京生まれ。凸版印刷勤務を経てフリーに。『時刻表でたどる鉄道史』『時刻表でたどる特急・急行史』(いずれもJTBパブリッシング)、『文学の中の鉄道』(鉄道ジャーナル社)、『鉄道ミステリーの系譜』(交通新聞社新書)など、鉄道にかんする著作が多数ある。そんな原口さんが精選した「名列車」とは。
もっとも古いのは、明治22年(1889)7月1日、東海道線の全通を待って運行を開始した直通列車だ。一日一往復。下りは新橋発16時45分、大阪着翌日11時39分で終着神戸には12時50分に着いた。所要時間は下りが20時間5分、上りが20時間10分、平均時速は35キロ。驚いたことに、名前のないこの普通列車は昭和43年(1968)まで走り続けた。
列車に愛称がついたのは、昭和4年(1929)のことだった。東京―下関を結ぶ一等・二等特急に「富士」、三等特急に「櫻」の愛称がついた。不況下にもかかわらず、乗客は多かった。いずれも終点、下関で関釜連絡船とアクセスして朝鮮半島、中国大陸、そしてヨーロッパへと結ぶ国際鉄道網の一環と位置づけられたからである。
そして、翌5年(1930)、戦前を代表する特急が登場する。東京・大阪間を3時間短縮し、8時間20分で結ぶ、一等・二等・三等特急「燕」が誕生した。当時は蒸気機関車(C51)の時代。難関の箱根山を超えるため、走りながら補助機関車を連結、最高所の御殿場で急こう配を登り切ったら、やはり走行中に切り離すという離れ業で時間を切り詰めた。
昭和9年(1934)には、丹那トンネルが開通、東阪間の所要時間は下り8時間37分、上り8時間40分まで短縮された。そして、これが戦前を飾る最後の輝きとなった。
戦時中に廃止された、燕、富士、櫻などの優等列車。戦後、昭和24年(1949)に登場したのが東京と大阪を結ぶ夜行急行「銀河」だった。すでに東海道線の夜行列車は復活していたが、銀河は一等寝台、二等座席、三等座席を組み込んだ14両編成。なにより急行としては戦前戦後を通じて初めて愛称がついたのだった。
「走るホテル」と呼ばれ、ひと眠りしている間に目的地に着くので盛況だったが、平成に入ると乗車率も40%を切るようになり、平成20年(2008)に廃止された。2003年ころ、大阪に勤務していた評者はたまに銀河を利用した。キタで一杯やって夜10時すぎに飛び乗ると、早朝には東京に着くのが気軽だった。しかし、すでに車内は閑散としており、廃止の予感がした。高い寝台料金を考えると、新幹線利用に流れるのは仕方のないことだった。
昭和33年(1958)に登場し、東京・京阪神の日帰り出張を可能にした特急「こだま」や新幹線「ひかり」、そして「のぞみ」などももちろん紹介されている。だが、そうしたエリート列車と並んで、急行「津軽」の名前を見て、懐かしさがこみあげてきた。
昭和29年(1954)から平成5年(1993)まで上野から青森を結んだ列車だ。最初は需要が見込めず不定期の運行だった。東北線経由の列車はすでにあったので、重宝したのは秋田以北の奥羽線沿線の乗客だ。昭和31年(1956)のダイヤ改正で定期運行となり、上野・青森間は約16時間(秋田までは約12時間)。
硬い直角座席での長旅は苦行だったが、出稼ぎの人や集団就職で上京した少年少女にとって、「津軽」に乗ってふるさとに帰るのはステイタスであり、いつしか「出世列車」と呼ばれるようになった。
秋田出身の評者も学生時代、しばしば利用した。いまは無人駅になっている田舎のわが駅にも堂々の12両編成が停車したのだ。目覚めればふるさという思いが何より安心だった。年末の繁忙期には指定席が取れず、自由席車両の通路に新聞紙を敷いて横になり、一夜を過ごした。車内には酒の匂いが漂った。
その後、懐に余裕がある時は特急「つばさ」で秋田まで約8時間、今は秋田新幹線「こまち」で最速3時間半。この数十年で時間は飛躍的に短縮した。時には始発の「こまち」に乗り、秋田から東京まで新幹線通勤している最近の評者である。確かにライフスタイルは変わった。
本書が取り上げている列車は50にも満たない。人にはそれぞれの「名列車」があり、かけがえのない記憶があるだろう。いつの時代になっても鉄道には航空機にはない旅情がある、と断言したい。
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