東京・六本木界隈にあるサントリー美術館で2018年4月8日まで「寛永の雅 江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽」展が開かれている。江戸時代初期、京都で生まれた「寛永文化」。その推進役となった小堀遠州、野々村仁清、狩野探幽らの作品を紹介している。
キーパースンになるのが後水尾院(1596~1680)だ。1611年に天皇になり、29年の譲位後は上皇として京の文化人と交流を深めた。
「寛永文化」と聞いても、一部の美術通をのぞけば、ピンとこない人が多いかもしれない。今の日本文化、京都文化の原型になるものだ。平安時代からの「みやび」に、室町以降の「わび・さび」が付与され、茶の湯や生け花が尊ばれた。公家、武家、町衆、文人などが互いに交流し、宮廷文化に町衆文化が融合された。ちょうど寛永年間(1624~45)に栄えたのでその名がある。
では後水尾院とはどんな人だったのか。本書『後水尾天皇』(岩波書店、原著は82年、朝日新聞社刊)によると、妻・和子は徳川二代将軍秀忠の娘。のちに「東福門院」の名で知られる。異例だが、将軍家から妻を迎えたことで幕府から財政支援を受けることが可能になった。後水尾院は「学問と芸道をきわめ」「宮中の諸儀式を復活させ」「修学院離宮を造営」したとされる。なかでもポイントは次の一行に凝縮されるだろう。
「葵(あおい)」の権力から「菊」の威厳を巧みに守りつつ官邸サロンを主宰し、池坊専好、千宗旦、本阿弥光悦らが輩出する寛永文化を花開かせた」
キーワードは「菊」と「葵」だ。本書によれば、朝廷は戦国時代に衰微したが、最終局面の信長・秀吉の時代には天皇の権威が高められた。下剋上で成り上がった覇者にとって天皇の権威を上に持つことが必要だったからだ。
だが、家康は違った。じわじわと立場を強める。1615年、対朝廷政策の仕上げとして「禁中並公家諸法度」を発した。鎌倉幕府以来、武家政権の時代が続いていたが、禁裏に対して法制を発布した例はない。天皇の任務をいろいろ定め、改めて幕府による処罰の権利まで明文化したのだ。
このとき、秀吉の時代とは異なり、「菊」の権威は「葵」の権力に屈する形となった。天皇のつとめるべきは「芸能」、すなわち今で言う「教養」「文化一般」とされ、「文化」に注力せざるをえなくなったのが後水尾院というわけだ。
「寛永文化」を命名したとされる歴史学者の林屋辰三郎氏は、後水尾院を「悲運の人」とみて、「菊」と「葵」を対立的に捉えていたという。本書の著書で、歴史学者の熊倉功夫氏は、「両者をもっと統一的にとらえられないか」という視点を提出している。
いずれにしろ江戸時代、両者が一定の緊張関係にあったとはいえるだろう。幕末になってそれが沸点に達したとみることもできそうだ。すなわち「菊」が「葵」を制したのだ。
本書には思わぬ後日談がある。1988(昭和63)年春、熊倉氏は数人の学者と当時の皇太子殿下を囲む座談の会に出た。その年の暮れ、朝日新聞が皇太子殿下に日常生活について38項目の書面アンケートを送った。殿下は丁寧にお答えになり、その中で、最近読んで印象に残った本の三冊のうちの一冊に本書が取り上げられていたのだ。
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