歴史は細部に宿るという。あるいは「真実は」と置き換えてもよいかもしれない。本書『戦慄の記録 インパール』(岩波書店)を読んで改めてそんな言葉を思い出した。
太平洋戦争で最大の愚策といわれるインパール作戦。ビルマの奥地インド北東部のインパールをめぐる連合軍との攻防だ。軍内部でも多数の反対の声があったにもかかわらず強行し、1944(昭和19)年3月の作戦開始から7月初旬までに日本将兵9万人のうち3万人が犠牲になった。退却路は死屍累々、食糧が途絶えて餓死だらけ。そこにハゲタカが襲い掛かる。「白骨街道」と呼ばれた。
本書から、どのような「細部」が立ち上がってくるか。例えば、この作戦を強力に推し進めた第一五軍司令官・牟田口廉也中将と、作戦参謀のやりとり。
「どのくらいの損害があるか」(牟田口)
「5000人殺せば(陣地を)とれると思います」(参謀)
「そうか」(牟田口)
だれでも、「敵を5000人殺せば」と思うだろう。ところが違った。味方の師団で5000人の損害が出るということなのだという。日本の将兵が戦って死ぬことを、平然と「殺せば・・・」という。たまたま作戦会議に出席した経理部の少尉は驚き、「回想録」に書き残している。
「まるで、虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現するそのゴーマンさ、奢り、不遜さ、エリート意識、人間を獣か虫扱いにする無神経さ。これが、日本軍隊のエリート中のエリート、幼年学校、士官学校、陸軍大学校卒の意識でした」
こんな話も紹介されている。牟田口司令官らは、戦闘が始まっても前線から300キロほど離れた避暑地に本部を置いてとどまっていた。そこには将校専用の料亭があった。芸者や仲居も日本から来ていた。多くの将校に専属の芸者がいた。戦況報告などが料亭で行われることもあった。前線からの命がけの報告を女と酒を飲みながら聞いていた...。
これに類した話は、戦前の戦争予算の詳細に迫った『軍事機密費』(岩波書店)の中でも出てくるが、まだ開戦前の話だ。戦争がはじまり、戦況が悪化しても、「女と酒」に浸る姿は異様だ。
本書はNHKスペシャル取材班が、牟田口司令官の肉声テープ、司令部の状況を詳細に記録した元少尉の日誌、地獄を生き延びた兵士たちの証言などを通じて、太平洋戦争で最も無謀といわれる作戦の全貌に迫ったものだ。番組は、2017年8月15日に「戦慄の記録 インパール」、12月10日のBS1スペシャル「戦慄の記録 インパール 完全版」、そして18年4月4日のBS1スペシャル「インパール 慰霊と和解の旅路」として放送された。NHKに届いた手紙やメールは300通を超えたという。
インパール作戦が今日に至っても繰り返し取り上げられるのは、単に犠牲者の多さ、悲惨さからだけではない。アジア・太平洋戦争の各作戦の中では、実行に移す前から軍幹部の間で異例なほど反対の声があり、実行後も作戦転換を訴える声が多々あったにもかかわらず強行されたという点が大きい。その責任はだれにあるのか。本書は当然ながら、そこに大きな比重を置いて振り返る。
例えば高級参謀の一人は「牟田口構想」に断固として反対したが、異動させられる。ビルマ南方軍の後方参謀は「作戦転換」を訴えたが、上司の参謀長は「予定通り実行できる」。経理部長が「補給が全く不可能」と明言すると、「卑怯者、大和魂はあるのか」となじられる。大本営でも秦彦三郎参謀次長が「インパール作戦の前途はきわめて困難」と報告しようとしたが、東條英機参謀総長が発言を制止し話題を変えた。「インパール」で勝つことで、苦境の戦局を打開したいという思いが強くあり、作戦に絶大な期待を寄せていたからだ。5月16日、事実を覆い隠して天皇陛下に「既定方針の貫徹に努力する」という報告をしている。
秦参謀次長はのちに回顧録で、「東條参謀総長に満座の中で叱責され、これ以上人前で言い争っても仕方ないと考え、黙って引き下がった」と振り返っているという。
そうこうするうちに、前代未聞のことが起きる。6月1日、現地で戦っていた第三一師団の佐藤幸徳師団長が「独断退却」を打電してきたのだ。弾薬もない、食料もない中で戦えないという判断だった。「食わず飲まず弾がなくても戦うのが皇軍である」という牟田口司令官に対する反乱。2万人の将兵を指揮する師団長が、軍の統帥を無視するという異例の事態。日本軍における「抗命事件」として歴史に残る。牟田口司令官は佐藤師団長を解任した。
同師団の後方参謀は当時、牟田口師団長と会談、その迷走する発言を書き残している。「佐藤をたたっ斬って、おれも切腹する」「(三一師団の)幕僚は、ひとりとして、腹を切ってでも佐藤師団長をいさめる者はいないのか。腹を切れんのか」。
さらに「牛一万頭を送ってやる。一頭あれば、一日千人が給食できる」と言い出した時には、「頭が変になっている」と思ったという。牛はもともと同行していたのだが、途中の大河を渡れず、険しい山も越えられなかったからだ。
佐藤師団長は軍法会議で争うつもりだった。しかし、それはできなかった。牟田口司令官の上司にあたるビルマ方面軍の河辺司令官が、佐藤師団長を「精神錯乱」とし、問題を隠ぺいしたのだ。軍法会議などで事実があらわになり、責任が上層部に波及することを恐れた措置だった。河辺司令官は東條英機の陸大の同期だった。
多大な犠牲に加えて、戦争末期の陸軍の混乱ぶりを見せつけたインパール作戦。それぞれの責任者たちはほとんど責任を問われずに戦後を迎えた。
ただし、牟田口司令官だけは、「よく生きていられるな」と罵られ、慰霊祭に出ると、遺族から「あんたが牟田口か、帰れ」と叱責されるなど苦渋の日々を強いられた。今日に至るまで「インパール作戦の大失敗=牟田口が無能だったから」という定式で語り継がれてきた。
牟田口氏は1956年、防衛庁戦史室から依頼され、「回想録」を残している。「私の統率なり判断ぶりは殆ど総てが非であったと思われてならない。私は終始自らを責めて懊悩の日々を過ごして居る...」。
しかしながら、「上司の意図通りに動いた結果に過ぎず、自らの独断によって作戦を実行したわけではない」(本書)という思いもあったようだ。「回想録」では「私は決して、南方総軍および方面軍河辺将軍の意図に背いて作戦構想を変更し、我を通した考えはみじんもないことを、ここに宣言する」と強調している。軍の指揮系統からすれば確かにそうだろう。
だが、軍の組織は非情だ。戦後、牟田口氏と、その上司の河辺ビルマ方面軍司令官の両方に面会した人物によると、牟田口氏は感情の高ぶるままに絶句落涙。河辺氏は「まだ牟田口はそんなことに悩んでいるのか」と話していたという。
本書には呆れるような話が次々と出てくる。改ざん、隠ぺい、忖度、責任逃れ。日本軍の「失敗の本質」が凝縮されている。それは今日の永田町や霞が関、不祥事が絶えない民間企業の姿にも通じる。「インパールの教訓」から、日本人はまだ学ぶことが多いと痛感する。本書は格好のテキストだ。
本欄ではNHKスペシャルから書籍化された戦争関連本として、『本土空襲 全記録』(株式会社KADOKAWA)、『僕は少年ゲリラ兵だった――陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊』(新潮社)、『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』(講談社)、『特攻隊振武寮』(朝日新聞出版)なども紹介している。「Nスぺ」からの単行本が目立つことについては、「Nスぺ」は売れっ子のノンフィクション作家というニュースも報じている。
戦争における餓死については『マーシャル、父の戦場――ある日本兵の日記をめぐる歴史実践』(みずき書林)、精神疾患については『戦争とトラウマ――不可視化された日本兵の戦争神経症』(吉川弘文館)も紹介している。
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