「武器はチェロ。潜入先は音楽教室。」
安壇美緒さんの『ラブカは静かに弓を持つ』(集英社)は発売以降、各方面から熱い支持を受けて続々と版を重ねている。今年1月、第25回大藪春彦賞を受賞。2023年本屋大賞ノミネート作でもある。本屋大賞は4月12日に発表予定。
タイトルの「ラブカ」が印象的だが、題材も斬新だ。音楽著作権を管理する団体の職員が、音楽教室の演奏実態を調査するために一般客を装って潜入調査した。そして裁判で証言したという、実際にあった事件をモチーフにしている。
ただ、本作の中心は事件や法律の話ではない。スパイに任命された主人公の心理、潜入先で築かれていく信頼関係にスポットを当てている。繊細かつ豊かな文章表現に、おぉ、と何度もうなった。
少年時代のトラウマを抱える潜入調査員の孤独な闘いが今、始まる。
奏でる歓び。裏切る苦しみ。美しき孤独なスパイが最後に手にするのは――
橘樹(たちばな・いつき)は、国内の音楽著作権を管理している全日本音楽著作権連盟(通称・全著連)に所属している。
大手音楽教室からも著作権使用料の徴収を開始する、と発表した全著連。ネット上では、大衆から音楽を取り上げようとする欲深い団体として糾弾されることもしばしば。そして来月、全著連は「音楽教室の会」に提訴されることになった。
ある日、橘は上司に呼び出される。「君、チェロが弾けるんだってね?」。「チェロ」という単語が飛び出し、橘の心音はボン! ボ、ボ、ボ......と激しく逸り、呼吸が苦しい。5歳から13歳までやっていたが、もう12年チェロに触れていない。
「橘君。君にミカサ音楽教室への潜入調査をお願いしたい」――。橘のミッションはこうだ。レッスンを受け、教室でどのようなことが行われているのかを調査し、そこで見聞きした情報を法廷で証言する。期間は2年。目的は、著作権法の演奏権を侵害している証拠をつかむこと。
「突然降ってきた特別な任務は、十二年ぶりにチェロを弾くことを求めていた。スパイ行為よりも何よりも、その一点に心は乱された。」
「閉じた性格」の橘は、人付き合いが得意ではない。2年間通ったところで特別な人間関係を築くとは思えず、長期間の潜入調査に向いている側の人間と言えた。しかし、チェロを弾くとなると話は別だった。
潜入先は、ミカサ音楽教室二子玉川店。橘のシャツの胸ポケットには、ボールペン型の録音機が挿し込まれている。毎回、レッスン前にボタンを押すことを忘れてはならない。職業は区役所職員という設定にした。
講師の浅葉桜太郎(あさば・おうたろう)は2つ年上で、気さくで社交的な印象だった。レッスンが始まると、講師と生徒の距離感は思ったよりもずっと近く、橘は若干不安を覚えた。
「この狭い密室の中で、真向かいに座っている人間を欺き続けるというのは、想像していたよりも大変なことなのかもしれない。」
気になるのが、なぜ橘はスパイ行為以上にチェロに恐怖を感じるのかということ。それは12年前に起きた「ある事件」がきっかけだった。もう2度とチェロに触れることはないだろうと思っていたが、その機会は意外な経緯で訪れた。浅葉の熱心な指導を受けるうちに、もっといい音で響かせてみたいと橘は思い始める。
安壇さんはインタビューで「こんなに心臓に悪い話を書くことは、今後ないんじゃないかと思いました(笑)」と話しているが、何度か背筋が凍る瞬間がある。正体を見抜かれたか!? と、読んでいるこちらも息が止まりそうになる。
その1つが、橘が発表会で弾く曲名を浅葉が告げるシーン。「戦慄(わなな)きのラブカ」。諜報機関に所属する孤独な男が潜入先の敵国で居場所を見つけるという、スパイ映画の主題歌だった。浅葉はこの曲のイメージをこう表現する。
「凍てつくような底深い海で、孤独な魚が息を潜めている。そいつは醜い顔をして、こちらをじっと睨んでいるんだ。おまえのことを見ているぞって、俺が動くのを待っている」
橘の正体を見抜いているかのようで、一瞬固まってしまう。「ラブカ」は深海魚の名前で、その映画では敵国側のスパイを「ラブカ」と呼ぶ。「水深千メートルを生きる、鋭い歯を持つ周到なラブカ。孤独を泳ぐ、醜いスパイ」――。ラブカと橘のイメージが重なっていく。
スパイも人間。任務だと割り切って徹することができる人もいれば、時間とともに情がわいて罪悪感に苛まれる人もいるだろう。橘は後者だった。
「自分が従事してきた仕事は決して間違ってはいない」という正々堂々とした思いも、「正体がばれたら俺は軽蔑されるのだろうか」という後ろめたい思いも、橘の中にある。そろそろ限界だった。証人尋問の日程も近づいていた。そして迎えた終盤、橘は驚きの行動に出る――。
「これは『時間と信頼』の話なんじゃないかなと思いました。時間を重ねるにつれて、相手との信頼関係が醸成されていく。そうやって出来上がったものは、ある一点の事実のみで壊されてしまうものなのだろうか(後略)」
(集英社 文芸ステーション・著者インタビューより)
現実的な設定だからこそ臨場感があり、スリルを存分に楽しめた。橘は心をがっちり装備して任務遂行するタイプかと思いきや、案外そうでもなかったりして、気持ちのゆらぎがすごく人間的だなと思った。安壇さんにとって第3作となる本作。言葉がすっと伝わってくる感じがよかった。これからも注目していきたい。
本書の特設サイトでは、インタビュー、スペシャルショートストーリーを読むことができる。
■安壇美緒さんプロフィール
あだん・みお/1986年北海道生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。2017年、『天龍院亜希子の日記』で第30回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。2020年、北海道の中高一貫の女子校を舞台にした青春長編『金木犀とメテオラ』を刊行、書店員からの熱い支持を受けロングセラーとなる。
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