江戸後期に実在した商人、杉本茂十郎を主人公とした永井紗耶子さんの時代小説『商う狼』が、新潮社から新たに文庫版となって出た。
本作で新田次郎文学賞、本屋が選ぶ時代小説大賞、細谷正充賞の三冠を達成した永井さんは、今年、『女人入眼』(にょにんじゅげん)で2022年度下半期の直木賞候補作にもノミネートされた。本作は、そんな手練の書き手としての力量を堪能できる一冊だ。
隅田川を越えて富岡八幡宮に至る永代橋が、祭礼に向かう群衆の重みで崩落、多数の死者が出るという惨事が起きたことで、定飛脚問屋の主、大阪屋茂兵衛、後の杉本茂十郎の人生は一変する。
惨事で妻と息子を失い、どん底に突き落とされた男が、その後の橋の再建を担うだけでなく、江戸の商いの構造をも変えていく物語と言うと、商人の出世譚のように思われるかもしれないが、心の底に横たわる黒い怨念とともに、最後は歴史の闇に消えていった男の軌跡である。
杉本茂十郎は知らなくても、株仲間、菱垣廻船、天保の改革といった歴史上の用語はご存じの方も多かろう。そうした歴史の現実に茂十郎は当事者としてかかわっていた。そのことが当時のディテールを踏まえて描き出される。
本作は、茂十郎の兄貴分としての役割を、知らないうちに担わされていく札差、堤弥三郎の目を通して語られていくが、弥三郎も含め、当時の江戸商人と幕府の関係は、当然ながら武士階級の公儀が圧倒的な力を持つ。
三井など徳川につながる既得権益層の富の独占も描かれるが、士農工商という身分制度の中では、商人は農工に次ぐ低い立場に甘んじなくてはならない。今でいう公共事業という制度がない当時、崩落した永代橋の再建に幕府はカネを出そうとしない。
そこに手を挙げたのが、橋の崩落で妻子を失った茂兵衛であった。定飛脚問屋主を譲って、杉本茂十郎と名を変え、江戸商人から金を吐き出させ、他の橋を含めて次々と建て替えていく。さらに大型の回船建造や流通改革も推し進めていく。建前としては、江戸の繁栄と異国への備えのためであり、それが江戸商人の富につながるというものである。
しかし、そもそも永代橋崩落の原因は何だったのか。その問いに対して茂十郎が最後まで抱き続ける思いこそが、本書の通奏低音といえるだろう。
茂十郎は、幕府の役人との関係も作り、江戸の経済を牛耳る頭目の立場を得る。時には容赦なく反目する商人たちを追い落とし、結果として死に追いやる結果さえ招く。悪徳政商とさえも言えるだろう。
いつしか「毛充狼」というあだ名をつけられるほど、悪名も流れるようになるが、むしろ、その悪名を利用して、さらなる改革を進める。タイトルの『商う狼』の由来である。
そんな狼も、最後は不正と失政を覆い隠そうとする幕府に追われ、歴史の表舞台から消え去っていく段になって、語り手である弥三郎が幕府の役人に対して吐く台詞が身に染みる。
江戸時代の経済というと遠い話に見える。だが、先進国で最悪の借金を抱え、少子高齢化にあえぐ現代の日本が、民間企業の法人税の増税で防衛力増強を推し進めようとしているのとダブって見えてくるのも不思議だ。実在した杉本茂十郎が現代に生きていたら、何を語るだろうかと思わず考えてしまった。
巻末の「解説」で本郷和人さんが指摘しているように、歴史研究(ノンフィクション)の手法を含み込み、そこから跳躍して劇的な物語(フィクション)を構築した本作を、いま読む意義も大きいと感じた。
■永井紗耶子さんプロフィール
1977年神奈川県生まれ。慶應義塾大学文学部卒。新聞記者を経てフリーランスライターとなり、2010年、『絡繰り心中』で小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。他の著書に『大奥づとめ よろずおつとめ申し候』『福を届けよ 日本橋紙問屋商い心得』『横濱王』などがある。
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