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戦中、中国奥深くまで潜入した「密偵」の旅を沢木耕太郎さんが描く

天路の旅人

 紀行文学の傑作『深夜特急』で知られるノンフィクション作家・沢木耕太郎さんが、9年ぶりに書いた大型ノンフィクション『天路の旅人』(新潮社)は、いささか変わったつくりの本である。

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 テーマは「旅」だが、沢木さん自身の旅行記ではない。第二次世界大戦末期、中国大陸の奥深くまで「密偵」として潜入した西川一三(1918~2008)という日本人がいた。25歳のとき、日本ではラマ教といわれていたチベット仏教の蒙古人巡礼僧になりすまし、敵国だった中国を横断。戦争終結後も旅を続け、チベットからインド亜大陸まで足を延ばした。

 足かけ8年におよぶ壮大な旅の一部始終は、帰国後自らが執筆した『秘境西域八年の潜行』という本になっている。ならば、沢木さんの出番はないように思われるが、沢木さんは、「この希有な旅人のことをどうしても書きたい」と思った。

 西川は数年をかけて本を書き上げると、あとはただひたすら東北・盛岡で化粧品店の主として人生をまっとうした。強い信念を持ったであろう、その生き方に沢木さんが惹かれたからである。

 したがって、本書の読みどころは2つある。1つは、沢木さんが会い、取材した結果浮かび上がった、西川の数奇な人生行路そのもの。もう1つは、分厚い文庫で全3冊、総ページ数で2000ページに及ぶ『秘境西域八年の潜行』(中公文庫版)を読み解いたガイドとしてである。

 沢木さんの取材の過程が「序章 雪の中から」「第1章 現れたもの」に綴られている。初めて西川に会い、本が完成するまで25年という長い年月がたっていた。このくだりを読むだけで、引きずり込まれるだろう。要約すると、こういうことになる。

25年がかりで書いた

 今から四半世紀前、沢木さんが岩手の一関に仕事で行ったとき、地元の新聞の「戦後史を考える」というような連載記事の中に、たまたま西川のことが出ていた。そこには、西川の「姫髪」という店の名前が載っていた。東京に帰り、しばらくたったある日、店名から電話番号がわかり、思い立って電話してみた。

 盛岡に伺うので、お会いいただけないか、という申し出は快諾されたが、こう付け加えられた。

 「私には休みというのがないんです。元日だけは休みますけど、一年三百六十四日は働く。だから、誰かのために特別に休んだり、時間を取るというわけにはいかないんです。毎日、午前九時から午後五時までは仕事をします。それでよければ、いつでもかまいません」

 それから約1年間、月に1、2度、盛岡に通った。1回行くと2晩、小さな和食の店で午後5時半から閉店時間の9時近くまで話を聞いた。西川はほとんどつまみを注文せず、酒だけを飲んだ。内蒙古を出発し、チベットを経て、インドを放浪し、ついには逮捕されて、日本に送還される。その足かけ8年に及ぶ旅の一部始終を、2度繰り返して聞かせてもらったが、本に書かれていない新たな話はついに出てこなかったという。

 どう書いたらいいのか方法論に行き詰まり、しばらくインタビューを中断させてもらった。その後、気になりながらも盛岡に行くことはなかった。2008年に西川が亡くなったことを知り、電話をすると、夫人と思われる人が出たが、体調が悪いとのことで訪問はかなわなかった。それからまた何年か過ぎ、ようやく夫人との面会が実現した。そこからスパートがかかった。

 山口県出身の西川がなぜ、中国に渡ったのか。そして、戦後、なぜ縁故のない盛岡に落ち着いたのか。85歳でがんになるまで一心不乱に働き続けたのか。その答えが書かれている。

 福岡の名門、修猷館中学を出た西川は、南満州鉄道に入り、満州に渡るが5年で辞める。1941年(昭和16年)、内蒙古に設立された興亜義塾という学校に入り、卒業後、3人のラマ僧に同行し、中国奥地をめざす。日本人とわかれば、処刑される恐れがあるため、身なりから言葉、生活習慣まで「ロブサン・サンボー」という名の蒙古人になりきった。その旅の詳細を知るには、本書を読んでもらうしかない。

 『秘境西域八年の潜行』自体も、複雑な経緯で成立した本である。帰国後、GHQによる1年間の聞き取りがあったあと、出版のあてもなく記憶だけで3200枚の原稿を書いた。東京の生活協同組合で西川と知り合った夫人が、鉛筆書きの原稿をペンで清書した。

 本になるまでには時間がかかった。あまりにも膨大なため、引き受ける出版社がなかったのだ。段ボール2箱に入った原稿は講談社に放置されていた。その存在を知った芙蓉書房が上下2冊で出版したのは、1967年のことだった。1200枚分はカットされた。1990年に中公文庫から全3巻で出たが、元通りにはならず、復元できない部分もかなりあった。

 今回、沢木さんは中公文庫の担当者が奇跡的に保管していた原稿を遺族の了解を得て、借り受けた。そして、2000ページの文庫本と、3200枚の生原稿を突き合わせた。誤植やつながりの悪い箇所を補綴しつつ、50時間近い取材テープを改めて聞き直し、立体的に旅を描き直した。

 沢木さんは、本書が「『秘境西域八年の潜行』という深い森を歩くための磁石のような、あるいは広大な海を航海するための海図のようなものになってくれればとも思う」とコメントしている。

 西川が内蒙古を出発したのは、数え齢26歳だった。沢木さんは26歳のとき、『深夜特急』でアフガニスタンにいた。30年余りしかたっていないのに、日本人の青年の旅のありようは、かくも変わっていたことに愕然とさせられる。今、若者はどこを旅しているのだろう。



 


  • 書名 天路の旅人
  • 監修・編集・著者名沢木耕太郎 著
  • 出版社名新潮社
  • 出版年月日2022年10月25日
  • 定価2640円(税込)
  • 判型・ページ数四六判・574ページ
  • ISBN9784103275237

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