今から140年前の1878年(明治10)、ひとりの英国人女性が、横浜から東北地方を北上、北海道へ渡った。鉄道は横浜・東京間しかない時代。馬に荷物を積み、従者の若者イトウをひとり従えての旅だった。女性の名はイザベラ・バード、47歳。売り出し中の紀行作家だった。帰国後、発売された『日本奥地紀行』(1880)は発売と同時に重版のヒットとなった。
その『日本奥地紀行』のルートを鉄道に乗り、たどったのが本書『新にっぽん奥地紀行』である。著者の芦原伸さんは、雑誌『旅と鉄道』編集長をつとめた紀行作家。車でも徒歩でもなく、ローカル線の車窓から想像した明治の旅である。意外とリズムが合い、バードの思いが伝わってくる。
バードのルートを簡単に挙げると、横浜、東京、日光、大内宿(福島)、新潟、置賜(山形)、山形、横手、秋田、大館、黒石(青森)、青森、函館、噴火湾、室蘭、平取・二風谷、帰りは函館から汽船で横浜へ。
『日本奥地紀行』はいくつかの訳が出ているが、評者は高梨健吉訳の平凡社ライブラリー版を手元に、芦原さんの本を読み進んだ。当時、日光より北にほとんど外国人は足を踏み入れたことがなかった。それゆえの「奥地」なのだが、そこにはまだ旧態依然たる「江戸」が残っていた。バードはみすぼらしい恰好をした人々の好奇の眼にさらされ、あばらやのような宿に寝泊まりし、ひどい食事を取りながら、旅を続ける。
評者の出身地など、以下のように記述されている。「屋根裏の部屋で、蚤が多かった。米飯はとても汚くて食べる気がしなかった。宿のおかみさんは、私と同じ畳の上に一時間も坐っていたが、ひどい皮膚病にかかっていた」。不思議と腹も立たない。それが明治10年の北東北の農村の現実だったからだ。バードは鋭い観察眼をもち、筆に遠慮はなかった。
さて、芦原さんは、豪雨で東武鉄道が復旧作業中だったため、日光までは車を利用した。金谷ホテルの前身、「金谷カテッジイン」にはバードも泊まり、今もそのまま残され、歴史館として公開されている。バードは生涯3回来日しているが、いずれも日光を訪問しているというから、よほど好きだったに違いない。
日光からは野岩鉄道、会津鉄道、JR只見線、磐越西線で新潟へ。そのまま日本海岸を北上すれば、秋田、青森へ行けるが、バードはそうしなかった。ふたたび峠を越えて内陸に向かい、山形県の米沢を中心とした置賜地方へ行った。バードは、米沢藩の藩校興譲館の語学教師、チャールズ・H・ダラスが書いた論文を資料に携えていた。芦原さんは「苦難の末に置賜の"アルカディアの風景"に感動するというドラマを創作したかったのではないか。つまり旅行記の山場は事前に用意されていたのだ」と推測する。確かにバードは米沢盆地を「エデンの園」、「美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である」とほめたたえている。芦原さんはJR米坂線羽前小松駅で降りる。作家の井上ひさしの生地で22万冊の蔵書を収めた「遅筆堂文庫」のある川西町立図書館は名所になっている。ここは慶應義塾大学教授を長く務めた訳者の高梨健吉の出身地でもあり、その寄贈図書もあるという。
芦原さんは高梨の「解説」の一節を引用している。
「農民にとって暗黒時代ともいうべきときに、新政府の施策の浸透していない東北の山村に平和郷が存在していたということは、愉快な発見である。このような事実は、概論的な歴史の本の中では見出すことはできまい」
この後、芦原さんは奥羽本線に沿って、山形、新庄、横手を経て秋田に出る。秋田には洋食屋があり、バードがビフテキを食べたエピソードを紹介している。日光以来、牛肉を一度も食べていなかったので喜んだそうだ。
さらに、青森から北海道に渡る。実は『日本奥地紀行』の3分の1はアイヌの記述に充てられ、アイヌの人々に偏見なく接したバードの人間性がうかがえる。芦原さんも「第14章室蘭 アイヌによって解放されたバードの心」など、北海道に同じような比重を割いて書いている。
『日本奥地紀行』については民俗学者の泰斗、宮本常一をはじめ多くの研究書が出ている。またバードと従者イトウを主人公にした中島京子の小説『イトウの恋』(講談社文庫)のほか、コミック『ふしぎの国のバード』(佐々大河著、株式会社KADOKAWA)も出るなど、創作のヒントにもなっている。BOOKウォッチでは、名古屋大の元ワンゲル部員たちによる『ザック担いでイザベラ・バードを辿る』も紹介している。
「湯沢は特にいやな感じの町である」とか、横手は「町は見ばえが悪く、臭いも悪く、わびしく汚く、じめじめしたところである」とさんざんな書かれようの秋田県だが、今日(2018年8月28日)の地元紙、秋田魁新報の一面コラムはバードの足跡を歩くブームを紹介している。「旅先で感じたことを率直につづったバードの紀行文は辛口の批評が目立つのも特徴」とした上で、「バードが日本を旅してからことしで140周年。完訳本などを手掛かりに歴史探究の旅に出てみてはいかが」と結んでいる。
実際に歩くのは大変なので、芦原さんの本をたよりに明治の日本と日本人に思いをはせてみてはどうだろう。
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