ペスト菌を発見し、「近代日本医学の父」とされる北里柴三郎と陸軍軍医のトップに昇りつめながら作家として名をなした森鴎外。本書『奏鳴曲 北里と鴎外』(文藝春秋)によると、二人は実はライバルだった!? 医師で作家の海堂尊さんが、感染症に挑んだ二人の医師の「栄光」と「蹉跌」をあますところなく描いた小説である。
東京医学校(現・東大医学部)を卒業した二人だが、北里が9歳年長だった。しかし、津和野藩の典医の家に生まれ、2歳年をサバ読んで入学した鴎外の方が早く卒業した。熊本の農家に生まれた北里は熊本の医学校を経るなど、苦労して上京したのだった。作中、北里は鴎外を「チビスケ」と呼び、鴎外は反発する。
成績優秀だった鴎外だが、卒業試験前に体を壊し、席次は8席。ドイツ留学はかなわず、陸軍軍医になる。一方、内務省衛生局に入った北里もドイツ留学を実現しようと画策する。
鴎外のドイツ留学が実現したのは「脚気」の研究を命じられたからである。上司が米食至上主義の論文を書くように指示。このことが鴎外の生涯の「失策」となる。麦食の効果は知られていたが、上司の失脚を恐れ、鴎外は米食にこだわった。陸軍は米食主義を貫き続け、惨憺たる結果を招いた。
日露戦争における陸軍の死者4万7千人のうち脚気の死者は2万8千人に達し、戦死者よりも多かった。脚気の原因はビタミンB1不足で、麦食を採用していた海軍の脚気患者はわずか100人余りだった。
北里は内務省衛生局の同期、後藤新平の援護を受け、ドイツ留学を果たす。コッホのもとで細菌学の研究をしているところに、鴎外がやってくる。そして、北里から実験の手ほどきを受ける。
「これは事実だった」と海堂さんは「週刊現代」(2022年3月26日号)のインタビューで明かしている。鴎外は「衛生学では北里にはかなわない」というコンプレックスと複雑な思いを抱いていたのでは、と指摘している。
鴎外は『舞姫』のモデルとなったエリスと恋に落ちるなど、前半は青春物語としても読むことができるが、二人が帰国後長ずるにつれて次第に陰鬱な権力闘争の色を帯びていく。
ドイツで破傷風菌の純粋培養に成功するなど華々しい業績を挙げて帰国した北里だが、日本政府の扱いは冷たかった。内務省の休職期限が切れて無職になり、大学からもお呼びがかからなかった。
そんな北里に救いの手を差し伸べたのが福沢諭吉だった。福沢の援助を受けて、大日本私立衛生会・伝染病研究所がつくられ、北里が所長になる。コレラの血清療法は失敗に終わったが、所員の志賀潔が赤痢菌を発見。北里は「東洋のコッホ」と呼ばれるようになる。こうした流れの中で、研究所の国有化が決まり、明治32年、内務省「国立伝染病研究所」となる。
その頃、鴎外は九州・小倉の第十二師団への赴任を命じられる。まさに都落ちだった。クラウゼヴィッツの「戦争論」を翻訳、陸軍に暗然たる影響力を持つ山県有朋の引きで東京に戻る。第一師団軍医部長、陸軍軍医学校長、軍医総監と出世していく。鴎外は歌会で山県に手ほどきをするなど、親しかったのだ。
日本の衛生行政に君臨する北里だが、私物化が見られ、乱脈を指摘する声もあった。北里の伝染病研究所を文部省所管の東大に移すというプランに鴎外は密かに力を貸す。二人の対決はどうなるのか......。
明治の医学界が非常に小さなサークルの中で動いていたことがわかる。だからこそ、北里と鴎外が接するようなことが起こり得たのである。
今では文学者としてしか知られていない鴎外だが、陸軍軍医のトップをつとめるなど、権力志向が強かったのも意外な一面である。そのため脚気への対応を誤り、多くの兵を失うことになった。
北里もツベルクリンによる結核の治療にこだわったが、これは抗生物質のストレプトマイシンが開発されるのは後のことなので、仕方のないことだろう。
あとがきで、海堂さんは、陸軍軍医部は昭和になるとさらに暴走し、関東軍防疫給水部(七三一部隊)を生み、中国大陸で生物兵器開発、人体実験へと向かった。その源流に脚気に対する森鷗外らの対応がある、と指摘している。
その隠ぺい体質は「コロナに関し、衛生学の基本をないがしろにして医学統計を発表せず、科学的根拠に基づかない対応をし続けている、政府や厚生労働省の姿と重なります」と書いている。
この物語の底流に、何か重いものが常に感じられるのは、そうした医学の「闇」のせいかもしれない。
著者の海堂さんは、『チーム・バチスタの栄光』シリーズで知られる。北里と鷗外の評伝を近く刊行予定だ。フィクションの本書と読み比べると面白いだろう。
BOOKウォッチでは、海堂さんの『コロナ狂騒録』(宝島社)などを紹介済みだ。
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