直木賞作家、佐藤正午さんの小説『鳩の撃退法』(小学館)が映画化され、8月27日から公開(松竹系)されると聞き、2014年に刊行された本書を本棚から引き出してきた。「著者5年ぶりとなる待望の長編小説」とあるのが懐かしい。佐藤さんは17年に『月の満ち欠け』で直木賞を受賞するが、寡作な人として知られ、当時、本書が出たことに、佐藤ファンは狂喜したものだ。
書き出しが意表を突いている。「幸地家の幼い娘は父親のことをヒデヨシと呼んでいた」。ここから父親の名前を呼び捨てにすることの当否が語られ、熱を出して寝込んだ妻が妊娠を告げる。「だったら、おなかの子の父親は僕じゃない」。何やらシリアスな展開になりそうな予感がして、実際そうなるのだが、まだ物語の構造は見えていない。
続いて、幸地秀吉がその半日前に深夜のドーナツショップの喫煙席で相席した男とのやりとりが出てくる。古本の『ピーターパンとウェンディ』に千円札をはさんだ男が主人公の津田伸一である。映画では藤原竜也さんが演じるが、小説ではもっと中年の冴えない男として描かれている。何より屁理屈なのだ。映画では西野七瀬さんが演じる店員の沼本(ぬもと)を、津田が何度も「ぬまもと」と呼び間違えるのがご愛嬌だ。
見かけたことはあるが、ほとんど初対面の二人。だが、幸地は津田に「家内は、僕と出会ったときもう妊娠していた」とか、下の子が産まれることはあり得ないと話すのだった。また、店で出会うような予感がしたが、二人が再開することは......。
かつて直木賞を受賞した有名作家だった津田は、ある事情からすっかり落ちぶれて、西日本の地方都市でデリバリーヘルス「女優倶楽部」の運転手をしているのだった。金もなく、知り合った女子大生の部屋に転がり込み、無為な日々をやり過ごしていた。
そんな津田に転機が訪れる。知り合いの古書店の老人が亡くなり、形見の鞄を受け取ったところ、中には数冊の絵本と古本、それに3000万円を超える現金が詰め込まれていた。
しばらく金には手を付けなかったが、2万円だけ店の女の子に貸したのが、思わぬ事態の始まりだった。偽札騒ぎが起き、不安になった津田は手元の1万円札を券売機に入れるが、はねられる。
ここを立ち去らねばと思った頃、幸地家一家と思われる三人神隠し事件や偽札事件の黒幕からの追及が始まろうとしていた。ここまでが「上」だ。
さて「下」で物語は思わぬ展開を見せる。知り合いの床屋の紹介で津田は東京に逃げる。中野駅北口の商店街にあるスナックでバーテンとして働くことになった。やがて客として出入りする出版社の編集者、鳥飼なほみに津田であることを見抜かれる。
津田と鳥飼のやり取りが面白い。
「彼女はどちらかといえば聞き役を好んだ。取材メモを取らないだけで、その姿勢は小説家への、より正確には筆を折った小説家へのロングインタビューに似通っていた。要は、彼女は身の上話を聞きたがった。神田の三省堂で十冊目の著書のサイン会をやったあと、津田伸一は今日までどこでなにをしていたのか?」
適当に逃避行を脚色して話すが、鳥飼は津田にもう一度、小説を書くように勧める。金欲しさに原稿を現金で買い取ってもらうことを提案する津田。このあたりから物語は虚実一体となって動き始める。
逃げてきた地方都市での出来事が再び綴られる。それを読んだ鳥飼は「なんですかこれ」と尋ねる。三人称で書かれた小説で、「いまきみが読んだとおりのことが起きている」と津田は答える。
津田本人が小説に登場し、関係者は全員登場する、と説明する。ノートに手書きで書かれた原稿は、10万円と中古のノートパソコンと交換に引き渡され、「僕はいまこれをMacBookで書いている」。
「鳩の撃退法」というタイトルは実用書のようなタイトルだ。鳩は偽一万円札の暗号だという説明だが、この鳩たちの行方はどうなったのか?
映画は「下」にあたる東京篇から始まるようだが、小説好きには「上」から読み、「下」での転換の妙を味わってもらいたい。「あちら」と「こちら」。小説内の主人公が実在するという著者の変幻自在な手つきに騙されてほしい。
佐藤さんは1955年生まれ。北海道大学を中退、郷里の長崎県佐世保市でホテル勤務のかたわら執筆を始め、84年すばる文学賞を受賞した『永遠の1/2』でデビュー。作品にもしばしば登場する競輪が趣味で、佐世保に住みながら執筆を続ける独特のライフスタイルでも注目された。プロットを何重にも構築する作風には定評がある。
直木賞作家のその後を描いた本作の後に、直木賞を受賞したというのも、佐藤さんらしいエピソードだ。
BOOKウォッチでは、直木賞受賞作『月の満ち欠け』が2019年に岩波文庫そっくりの装幀で刊行されたことを紹介している。
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