國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』(新潮社)は、哲学書だというのにたいへんよく売れている。もともと単行本刊行時もベストセラーだったうえ、2021年末に文庫化すると、翌2月には東大・京大それぞれの生協で売上1位を記録。現在も、各書店で平積みになっている。かく言う記者も、わざわざ哲学書コーナーに探しに行ったのではなく、たまたま平積みの表紙を見かけて手に取った。
人気の理由の一つには、哲学書とは思えないほどの文章の平易さがあるだろう。本書のまえがきの冒頭はこうだ。
数年前のこと。
俺は歌舞伎町が好きなフランス人の友人といっしょにあの界隈をぶらついていた。
物語でも始まりそうな書き出しだ。もちろん本編では一人称は「私」だし文章も論理的になるが、一貫してわかりやすく、適度にくだけていて、哲学に疎い一般読者をぐいぐい引き込む力がある。
もう一つ人気の理由として考えられるのは、テーマの普遍性だ。本書の初版刊行は2011年。2015年に増補新版が出たとはいえ、大筋は10年以上前の本だ。しかし、タイトルに掲げられた「暇と退屈」というテーマは、少しも古びないどころか、今まさに私たちが直面している問題ではないだろうか。現代日本ではほとんどの人が、暇を持て余したり、退屈を感じたりしたことがあるだろう。
本書の議論は、「考える葦」で有名なパスカルの、「気晴らし」についての考察から出発する。パスカルは以下のように書き記している。
人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。
コロナ禍の外出自粛中、「退屈で退屈で仕方ない! 会食や旅行に行きたくてむずむずする!」と感じていた方は、すぐに納得できるだろう。人間は部屋にじっとしていると、退屈でたまらなくなる。この退屈に耐えられないから、気晴らしを求める。
なぜ人間が部屋にじっとしていられないかは、本書の第二章で解説されている。簡単に言うとこうだ。先史時代、人は移動しながら生活していた。常に新しい環境へ移り、その変化に刺激を受け、脳が活性化され、能力を発揮していた。ところが定住するようになると、毎日同じ環境にいて、刺激を受けることがない。能力を発揮できなくなった人間は退屈でたまらなくなって、刺激を求めるようになる。生活のうえで移動をしなくなったかわりに、人間は精神世界を移動し、拡張し、複雑な文明をつくり上げてきた。こう考えると、「退屈」は人間が定住生活を営む限り抱え続けるジレンマであり、一朝一夕で解決する課題でないことがわかる。
パスカルの論に話を戻そう。パスカルは、人間は退屈を避けるために気晴らしを求めているにすぎないのに、「自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる」と指摘している。どういうことだろうか。
パスカルはウサギ狩りを例にあげている。これからウサギ狩りに行く人に、「きみ、ウサギが欲しいんだろう」とウサギを手渡してみるとどうなるだろうか。相手はとてもいやな顔をするに違いない。その人は、本当はウサギが欲しいのではなく、重い装備を持って野山を歩き回り、捕れた捕れなかったで一喜一憂するという「気晴らし」が欲しいだけなのだ。しかし、人間はそれに気づかず「自分はウサギが欲しい」と思い込んでいる。
いくつか例をあげてみよう。「服が欲しい」と思っているが、実際は店を見て回るのが楽しいだけ。「出世したい」と思っているが、実際はビジネスで競争するのが楽しいだけ。「隣国の領土が欲しい」と思っているが、実際は戦争をしたいだけ......。何もかも単に気晴らしをするための行動なのに、私たちはしばしばその目的を取り違える。
では、気晴らしとはどんなものか。気晴らしは、熱中できるものならなんでもよい。熱中できなければ退屈してしまい、気晴らしにならない。では、どんなものなら熱中できるのか。何の苦労もなくウサギを手に入れるのは退屈だ。汗水たらし、ときには失敗もするからこそ、ウサギ狩りに熱中できる。熱中には、苦しみやリスク、負荷といった、"負の要素"がなくてはならない。
本書ではニーチェの、当時のヨーロッパの若者たちに対する考察を紹介している。ニーチェは、退屈している若者たちが「何としてでも何かに苦しみたいという欲望」をもっていると指摘した。苦しむことはもちろん苦しいが、苦しみがなく何にも熱中できない状態は、何かに苦しむよりももっと苦しいのだ。
人は平和を願うが、平和で苦しみのない世界は退屈だ。「地獄はいやだけど、天国に行っても退屈そうだな」と考えたことはないだろうか。天国のような世界では、人間は退屈してしまう。そして熱中できることを求める。それがウサギ狩りくらいならばいいだろうが、ニーチェの死後の20世紀、人間は平和を捨てて、戦争へと突き進んでいく。
「人間は平和よりも戦争を望んでいる」などと言ってしまうと、それは倫理的に問題があると誰でも思うだろう。しかし、「退屈」について徹底的に考えていくと、このように、倫理的に問題がある人間の欲望が浮き彫りになる。本書のタイトルが「暇と退屈の哲学」ではなく『暇と退屈の倫理学』である必要性はここにある。退屈と倫理のジレンマの中で、人間はどう生きるべきなのか。これが本書の挑む課題だ。
本書は七章構成で、スピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなど名だたる哲学者の著述を引きながら、この永遠に解ききれそうもない「退屈」の倫理を論じていく。簡単に解けないテーマを扱いながらも、冒頭で触れたように、一般読者にもわかりやすく魅力的に書かれているのが見事だ。本書の序章で、著者の國分さんはこのように言っている。
本書は一息に通読されることを目指して書かれており、寄り道となるような議論、込み入った議論、引用文などは、そのほとんどを注のなかに記してある。さしあたって、【注は読まなくてよい】。(原文は【】内傍点)「暇と退屈」という、誰もが当事者である問題を論じるからこそ、どんな読者もとりこぼさず自分ごととして読んでもらえるように、このような書き方を選んだのだろう。議論の内容はたいへん骨があるが、読者が一度興味を抱けば、あとは本のほうが文章力と論理展開のあざやかさでどんどん連れて行ってくれる。だから、哲学については何も知らないけれどちょっと面白そうかも、と思った人には誰にでもおすすめできる。少なくとも、この本を読むことは、あえて何かに苦しみに行くことよりはずっと素晴らしい暇つぶしになるはずだ。
■國分功一郎(こくぶん・こういちろう)さんプロフィール
1974(昭和49)年生れ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。東京大学大学院総合文化研究科准教授。専攻は哲学。2017年、『中動態の世界』で小林秀雄賞を受賞。『暇と退屈の倫理学 増補新版』、『ドゥルーズの哲学原理』、『近代政治哲学』、『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』、『〈責任〉の生成―中動態と当事者研究』(熊谷晋一郎と共著)など著書多数。
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