2017年11月5日、クリスティーズの競売で日本円にして約510億円で落札された有名な絵がある。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)作とされる「サルバトール・ムンディ」だ。美術品取引史上の最高額ということで世界的に大ニュースになった。本書『最後のダ・ヴィンチの真実――510億円の「傑作」に群がった欲望』は、その顛末を執念深く追ったノンフィクションだ。
この絵画作品は、本当にダ・ヴィンチのものなのか。これまでどこにあったのか。510億円の価値があるものなのか。著者のベン・ルイスは、調査に乗り出す。美術評論家にしてドキュメンタリー・フィルムの制作者――そんなルイスが、この作品に引き付けられ、調べ始めたのはおそらく自分の職業から来る本能のようなものだろう。
翻訳家で、本書の邦訳を担当した上杉隼人さんが、「訳者あとがき」で調査の概要を丁寧に説明している。それによると、ルイスの調査は、母国イギリスから始まり、イタリア、フランス、ロシア、オランダ、アメリカと広がる。各地の図書館、美術館、写真アーカイブはもちろん、オンライン記事や法律文書にも目を通し、何人もの関係者の話を聞いた。
本人が巻末に記した謝辞には合計99の人物、団体への感謝が記されている。もちろん本件で重要な役回りを担った人物の多くに直接会っている。
こうして19年4月にイギリスで、同6月末にはアメリカで本書の原著が発売された。上杉さんは同10月末から翻訳作業に取り掛かり、20年2月には一通り訳し終えた。
ところが、である。ルイスからほどなく大幅な修正版が届いた。「サルバトール・ムンディ」を発見し、これはダ・ヴインチ作に間違いないと主張する人たちが、ルイスの原著に反論する内容の本を19年11月にオックスフォード大学出版局から刊行したからだ。
ルイスは、この本を読んで情報を差し替え、新たに判明した事実を加えて、ペーパーバックス版を20年4月に緊急出版した。上杉さんのところに届けられたのは、その修正版の原稿だった。9か月前に刊行されたハードカバー本とは、もはや別物になっていたという。
この辺りの丁々発止、息詰まる攻防を知るだけでも、この問題がいかに欧米の美術業界を震撼させているか、その一端を知ることができる。「史上最高値」の取引だけに、その価値を守る側も、揺さぶる側も絶対に譲れないのだ。
ところで、この「サルバトール・ムンディ」とはどのような作品なのか。本書に年表が付いている。
制作された? のは1501~17年ごろとされる。弟子たちによる複製画という見方もある。フランス王の娘が1625年、イングランド王のところに嫁ぐにあたり、持参したとの説がある。その後、1763年から行方不明。1900年のクリスティーズの競売にかけられ、ジョン・チャールズ・ロビンソンという人物が購入したようだ。
その後、58年にも再び競売にかけられたが、また消える。2005年に、本件の主たる当事者となっている画商のロバート・サイモンとアレックス・パリッシュが購入。08年にはロンドンのナショナル・ギャラリーで、名高い専門家の前に披露され、11年、ナショナル・ギャラリーのダ・ヴィンチ展で一般公開。13年、ロシアの大富豪ドミトリー・リボロフレフが購入。17年、クリスティーズの競売・・・という流れだ。この時の真の落札者は謎に包まれている。
作品は縦66センチ、横45センチ。「モナリザ」よりもやや小こぶり。クルミの木のパネルに、青いローブをまとった救世主イエス・キリストが描かれている。「サルバトール・ムンディ」とはラテン語で「世界の救世主」の意味だという。絵柄は、わかりやすく例えれば「男性版・モナリザ」のような感じだ。
この作品を「再発見」することになった画商のロバート・サイモンはコロンビア大学で中世ルネサンス期を研究、博士論文も書いている。メトロポリタン美術館の調査員などを経て、1986年から画商に転じた。アメリカの個人美術商協会の会長も務める。
もう一人のアレックス・パリッシュも、やはり画商だが、こちらはサイモンのような堂々たる経歴ではない。大学で美術史を専攻したが、最初の働き口は美術館のギフトショップ。ニューヨークで最低と言われる競売会社からのたたき上げだ。ただし、「掘り出し物」「眠れる芸術品」を見つける力は身に着けていた。
この二人が2005年、ニューオーリンズの聞いたこともない競売会社の図録に、この作品が出ていることに気付いた。値段はそれほど高くないから、リスクも大きくない。確か、2、3年前にも似たような絵がサザビーズの競売にも出ていたので、興味を持つ人がいるだろうと思い、2人で折半して買った。1175ドルだった。二人はそれを13年に8000万ドルで売り渡し、17年には4億5000万ドルで落札されることになった。
ダ・ヴィンチは人類史上最高の芸術家とされる。少なくとも、最高の人気を誇ることは間違いない。科学にも美術にも通じていた、いわゆる天才だ。彼の「レスター手稿」は現在、ビル・ゲイツが保有している。現代の天才が、人類史の天才の遺稿の保有者でもあることはよく知られている。
ゲイツ以前にその手稿は石油王、アーマンド・ハマーの財団が持っていた。今回の主人公、ロバート・サイモンは、かつてその手稿の鑑定を頼まれたこともあるという。ダ・ヴィンチについては屈指の専門家だと推定できる。
ダ・ヴィンチの完成絵画作品は19点しかないとされている。最後に発見されたのは約100年前の1909年、「ブノアの聖母」だ。今はロシアのエルミタージュにある。
本書によれば、数多くの研究者や美術関係者がダ・ヴィンチの魔性のとりこになり、「忘れられた真作」の発見に自身の人生を賭けてきたという。要するに宝物探しだ。「彼らの大発見は数か月ほど新聞やニュースを賑わせたものの、どれも一年以内に学術的な物笑いの種に貶められた」「美術史の記録をひもとけば、うめき声を上げる学者たちの亡霊がいくつも確認できる」と本書は記す。
はたして「サルバトール・ムンディ」はどうなのか。もう何年もたっているから「本物」との評価が定着したのか。
本書は、ミステリー仕立てで話が進むので、手に取って読んでいただくしかない。年末年始の休みにじっくり挑戦するには格好の一冊だ。『ダ・ヴインチ・コード』のような興奮を味わえることだろう。日本版には、著者インタビューをもとにした「『サルバトール・ムンディ』は今どこに?」も特別に付加されている。
かつて、『金色のソナタ』(音楽之友社)という本が欧米クラシック音楽業界の内幕を赤裸々に描いて話題になったことがあった。ロシアや中国の大富豪、さらには中東の権力者やトランプ・ファミリーも登場する本書は、名画の裏側、「金色の美術業界」の深い闇を余すところなく描いた後世に残る一冊となりそうだ。
BOOKウォッチでは関連で、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(文藝春秋)、『司馬江漢』(集英社新書)、『オリジン』(株式会社KADOKAWA)、『美意識の値段』 (集英社新書)なども紹介している。
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