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湯川秀樹が生きていたら「学術会議問題」で何を語るだろうか

湯川秀樹日記1945

 湯川秀樹(1907~81)は日本で最初にノーベル賞を受賞した科学者だ。核兵器廃絶のために、世界の科学者と連携して平和活動でも尽力した。和漢の古典にも通じ、文章家でもあった。

 その湯川が終戦の年、1945(昭和20)年に書き残していた日記をまとめたものが本書『湯川秀樹日記1945』(京都新聞出版センター)だ。「京都で記した戦中戦後」という副題がついている。

「大東亜戦争は遂に終結」

 いったい何が書いてあるのか。とりあえず「8月」をのぞいてみる。1日は疎開の打ち合わせ。2日は午後登校し、教室相談。3日は、「一中にて特別科学教育打ち合わせ」とある。

 この「特別科学教育」については、ちょっと注釈が必要だろう。BOOKウォッチで紹介済みの『神童は大人になってどうなったのか』(太田出版)によると、戦争末期、アメリカに勝つために、新しい発明を期待できそうな少数の英才を集め、国内の5つの旧制中学などで特別な教育を施そうとした。1945年に一期生が入学した。京都府立京都第一中学にも特別科学組が設けられていた。1年の1学期のうちに3年分の教科内容を進めるようなカリキュラムだったという。その「特別科学教育」に湯川も関与していたというわけだ。

 6日には大学の教授会に出席している。そして7日。「風邪気で頭痛がするので家に居る。明日子供等の集団疎開なので、何かと慌ただしい」という一文に続いて、「午後 朝日新聞、読売新聞 等より広島の新型爆弾に関し 原子爆弾の解説を求められた」とある。すでに米国のトルーマン大統領が、6日に広島に落としたのは「原子爆弾」と明言していたので、記者が駆け付けたのだろう。「が、断る」。湯川は対応しなかったことを記している。

 その後、13日には、午後4時から「原子爆弾に関し荒勝教授より広島実地見聞報告」があったことが記されている。広島の「新型爆弾」に関しては、京大では荒勝研究室が調査団を組織。理学部7人、医学部4人が9日の夜行列車で出発し、10日正午前、現地到着して調査、11日午前11時半に京都に戻っていた。調査結果を湯川が早い段階で聞いていたことがわかる。

 15日は登校。「朝 散髪し 身じまひする」。そして正午の「聖上陛下の御放送」を聞き、「大東亜戦争は遂に終結」と短く記している。

戦後すぐ研究室に占領軍将校が来た

 湯川は1938年から1948年まで研究室日記をつけていた。そこには私的な事柄も書かれ、個人の日記を兼ねる格好となっていた。没後に家族から京都大学に寄贈され、これまでにも、分析された内容が部分的に公開されてきたが、今回「1945年」についてまとまって出版されることになった。

 本書は湯川の日記を軸に、補足資料や解説も交えて以下の構成となっている。

 ・湯川秀樹日記1945
 ・湯川秀樹随想(科学者の使命/静かに思ふ/京の山)
 ・「湯川日記」に想う...(永夜清宵/永田和宏、遊んでいる手/黒川創、湯川日記が遺したもの/山極壽一)
 ・解説/小沼通二

 日記発掘の経緯については、本書の末尾に京都新聞記者の峰政博氏が書いている。戦後70年を迎えた2015年、戦争企画で日記の存在を知り、取材を続けて17年11月24日の京都新聞朝刊で「湯川秀樹 終戦期の日記」「45年6月~12月『空白期』初確認」などという見出しの記事を、1面など4つの面で大展開した。その後、1~5月の日記についても報道したという。それらが基礎になり、本書がまとめられたようだ。

 峰記者が関心を持っていたのは、戦前、京都帝国大学が原爆開発の可能性を探っていた、いわゆる「F研究」のことだった。「F研究」については終戦直後、GHQがデータや研究ノート類の大半を押収したため、全容が見えにくい。峰記者は、1944年10月4日付の会合出席者のメモに湯川博士の名があることをつかんでいた。「F研究」の主役は荒勝教授の研究室だということは知っていたが、湯川博士はどう関わっていたのか。日記に何か残されていないか――。

 本書には2月3日の項に、「F研究相談」の文言がある。6月23日にも「戦研 F研究 第一回打合せ会、物理学教室にて、荒勝、湯川、坂田、小林、木村、清水、堀場、佐々木、岡田、石黒、上田、萩原各研究員参集」と出席者の名前が登場する。もちろん研究は進まなかった。そして戦争が終わり、9月15日には早くも「米士官二名教室に来たので直ちに面会」と記されている。米軍は早々と、戦争末期の日本の原爆研究を察知、調査に訪れたのだ。10月4日と11月16日にも占領軍将校が来たことを日記に書いている。湯川は取り調べだとは認識していなかったようだが、本書には「聴取」の詳細を記した米側の秘密報告も掲載されている。

「全ては戦力に」から「静かに思ふ」へ

 本書には戦前と戦後の、湯川の対照的な随想も掲載されている。1943年の年頭所感「科学者の使命」(京都新聞、1月6日)と、終戦後間もなく「週刊朝日」(45年10月28日と11月4日合併号)に発表した随想「静かに思ふ」だ。

 前者には「科学者の使命/全ては戦力に/一擲せよ孤立主義」という見出しがついている。内容は紹介するまでもないだろう。後者は「嗚呼最早や戦は終つた。日本は今後永久に平和的国家としてのみ自己の存在意義を見出さねばならぬのである」。

 本書の今日的意義は、戦前と戦後で引き裂かれた湯川から何を学ぶかというところにある。現代の私たちにどのような問いかけをしているのか。

 そこで、きわめてタイムリーになっているのが、この9月まで京都大学総長を務めた山極壽一氏による「湯川日記が遺したもの」という一文だ。周知のように山極氏は日本学術会議の前会長でもある。

 湯川の戦前の原爆研究への関与と、戦後の核兵器廃絶運動への積極的な活動を振り返りながら、山極氏は、「日本学術会議は発足当初から湯川と共に歩いてきた」と記す。たしかに1949年の学術会議創設の年に、湯川はノーベル賞を受賞している。さらに山極氏は学術会議が50年、67年には戦争を目的とする科学の研究には絶対に従わない決意を表明し、昨年3月にもその表明を継承する提言をしたことを強調している。要するに学術会議は、湯川の戦前の悔悟と、戦後の平和への思いを継承しているということだろう。

 本書は今年9月1日の刊行であり、まだ日本学術会議に関する問題は起きていない。しかし、奇しくも予見したかのような内容になっている。

今も別格の存在

 本書には数式が混じる湯川の手稿なども再録されている。理系の研究者にとっては、湯川の思考回路の一端に触れることもできるので興味深いことだろう。湯川は、哲学者らとの対談も多く、全10巻の著作集も出している。日本のノーベル賞受賞者の中では今でも別格の存在だ。湯川の戦前と戦後から、そして1945年の日記から何を読み取るか。学術会議の問題で揺れる今だからこそ、改めて手にする意義がある本だと感じた。編者の小沼通二氏は慶応大学名誉教授。理学博士。

 BOOKウォッチは関連で、『近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻』(岩波新書)、『731部隊と戦後日本』(花伝社)、『陸軍登戸研究所〈秘密戦〉の世界――風船爆弾・生物兵器・偽札を探る』(明治大学出版会)、『教養としての歴史問題』(東洋経済新報社)なども紹介済みだ。




 


  • 書名 湯川秀樹日記1945
  • サブタイトル京都で記した戦中戦後
  • 監修・編集・著者名湯川秀樹 著、小沼通二 編
  • 出版社名京都新聞出版センター
  • 出版年月日2020年9月 1日
  • 定価本体2800円+税
  • 判型・ページ数A5判・263ページ
  • ISBN9784763807342
 

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