2017年に没後25年を迎えた松本清張に関する本の出版は、その後も続いている。BOOKウォッチでも、『誰も見ていない書斎の松本清張』(きずな出版)、『「松本清張」で読む昭和史』(NHK出版新書)、『松本清張「隠蔽と暴露」の作家』(集英社新書)、『清張鉄道1万3500キロ』(文藝春秋)、『旅と女と殺人と 清張映画への招待』(幻戯書房)などを紹介してきた。
社会派推理作家と理解されている松本清張だから、その作品論の多くは新書などの読み物として出版されるのが常だった。本書『松本清張が「砂の器」を書くまで』(早稲田大学出版部)は、博士論文として書かれたものを学術書として出したものだ。泉下の清張氏も驚いているかもしれない。
大学の文学部、大学院文学研究科におけるおもな日本文学の研究対象は、長らく古典やせいぜい明治の自然主義文学、おまけして戦前の作家というのが相場だった。最近では川端康成や三島由紀夫も入っているようだが。
いくら有名な作家の作品であれ、「通俗小説」と見なされる推理小説が研究対象となることは考えられなかった。純文学の作家でも生前は扱わないというのが業界の常識だった。
没後25年を経て、松本清張論が博士論文になり学術書として出版されたことを、ファンとしてはひとまず喜びたい。
著者の山本幸正さんは、1972年東京生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業、同大学院文学研究科日本文学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2017年に本書のもととなった論文により、博士(学術)。18年2月に中国上海にある復旦大学外文学院日語語言文学系の副教授を務めている。
こう書くとずっと研究者だったように思われるかもしれないが、修士課程からずっと予備校の講師で生計を立ててきた。恩師から松本清張で博士論文を書いてみないかと言われ、驚いた山本さんは、思わず「マジすか?」と聞き直したという。
副題に「ベストセラーと新聞小説の一九五〇年代」とあり、メディア論と絡めて清張作品を論じたところに勝因があったようだ。
本書の構成は以下の通り。
序章 松本清張と新聞小説の一九五〇年代 第一部 新聞小説家と私小説家 第1章 マスメディアの中の小説家――新聞小説家としての石川達三 第2章 新聞小説家の意見――石川達三の「自由」談義 第3章 ブームとなった私小説家――川崎長太郎の読者戦略 第二部 清張、新聞小説を書く 第1章 新聞小説第一作――「野盗伝奇」論 第2章 清張は新聞小説をどう書いたのか――「黒い風土」の執筆風景 第3章 ブロック紙の読者への戦略――新聞小説としての「黒い風土」 第三部 「砂の器」を読む 第1章 全国紙の新聞小説への挑戦――「砂の器」のたくらみ 第2章 <眼>から<耳>へ――「砂の器」を聴く 第3章 「砂の器」以降の清張、あるいは新聞小説についての覚書
かいつまんで言えば、小説には発表される媒体のヒエラルキーがあるということだ。清張作品に関して言えば、初期の雑誌の連載に始まり、続く新聞の連載、そしてカッパ・ノベルスなどの書き下ろしということになる。もちろん作品の優劣ということではない。
松本清張は朝日新聞西部本社に在勤中の44歳のときに芥川賞を受賞。東京本社への転勤に伴い、上京した「遅れて来た中年」だった。しかし、彼は新聞記者ではなく、広告部の図案係。しかも嘱託社員だった。鬱屈したものがあった。二足のわらじを履きながら、作家としての成功に賭けた。
1950年代は新聞小説の黄金期だった。朝刊小説は「吉川英治、獅子文六、大佛次郎、石坂洋次郎、石川達三らスター作家が交互に朝日、毎日、読売の三社に書き、二、三年先まで約束されていた」(読売新聞で「砂の器」を担当した山村亀二郎氏の回顧)。
評者も新聞小説の連載の舞台裏にかかわったことがある。少数の作家によるたらい回しはなくなったが、数年先まで予定が決まっているのは今も同じだ。
清張が割り込む余地はなかった。最初の新聞小説「野盗伝奇」は共同通信の配信で地方紙に連載された。次にブロック紙に、全国紙の夕刊、そして全国紙の朝刊へと着実にステップアップしていった。
本書ではブロック紙に掲載された初めての現代物である「黒い風土」と全国紙(読売新聞)の夕刊に掲載された「砂の器」について詳細に論じ、そのメディア戦略に注目している。清張の作品について多くが論じられてきたが、媒体の性質によって書き分けが行われていたことを指摘したのがユニークだ。
新聞小説はさまざまな読者が読むので、分かりやすいことが旨とされる。しかし、清張はその中にサスペンスに満ちた語り、「新聞を読む新聞小説」という構造、さまざまな異質な文章の引用など野心的、実験的な試みを行っていたと解説している。
また、作品論としても<音>に注目しているのに驚かされた。秋田の「カメダ」と島根の「カメダケ」がズーズー弁だと同じように聞こえるという「つかみ」はあまりにも有名だが、それ以外にも主人公の作曲家の姿を通して、当時勃興した前衛的なミュージック・コンクレートにも言及している。主人公が黛敏郎のようだというくだりには笑ってしまった。
小説では電子音楽なのに、映画「砂の器」では、「メロディアスな、前衛とは無縁な楽曲」に変わっていた。そして、こう残念がる。
「『商業主義』によってもたらされた映画『砂の器』の感動は、小説『砂の器』の可能性の多くを封じ込めてしまった。感動あふれる『売れる音楽』によって、聴き取ることが難しくなったものも少なくない。『砂の器』が聴かれなくなって久しい。そろそろ私たちは、清張が紡ぎ出した<音>に耳を傾けるべきなのかもしれない」
まだまだ清張作品には、いろいろな読み解き方があることを教えられた。本書は学術書だが、実にわかりやすく書かれている。少し値は張るが清張ファンに薦めたい一冊だ。
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