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母の呪縛から逃れるために

母を捨てるということ

 誰しも表の顔ともう一方の顔をもっているだろう。テレビに映る華やかな姿ばかりを見てきた人と、小説か現実か区別がつかないほど壮絶な半生を送ってきた人。本当に同一人物の話なのかと、にわかには信じがたかった。

 『母を捨てるということ』(朝日新聞出版)の帯には「呪縛から逃れるために」とある。本書は、医師・おおたわ史絵さんによる「依存症に陥った母と愛されたかった娘の40年」の記録。薬物依存の母と、依存症家族である父娘の葛藤を包み隠さず書いている。

「誰かに認めてほしかった」

 おおたわ史絵さんは、総合内科専門医。法務省矯正局医師。東京女子医科大学卒業。大学病院、救命救急センター、地域開業医を経て現職。刑務所受刑者の診療に携わる、数少ない日本のプリズンドクター。ラジオ、テレビ、雑誌などのメディアでも活躍中。

 評者はこれまで、おおたわさんはなぜしょっちゅうテレビに出ているのだろう......、もっと言うと、本業に徹すればいいのに......と思っていた。医師でありつつ芸能活動をしていることに違和感があった。「そもそもなぜ医師としての生きかただけに飽き足らず、メディアなどに足を踏み入れてしまったのか?」について、おおたわさんは本書にこう書いている。

 「これについては自分のなかで明確な答えが出ている。ただひとつ、『誰かに認めてほしかったから』。幼少期から母親に褒められることがなく、認められた感覚のないわたしは、自己評価がすこぶる低い。それを埋めるために、誰かに見てほしい、認めてほしい、そしてできれば褒めてほしい......という願望がひと一倍強いのである」

 「(産むんじゃなかった)と悔やむ母と、(いっそ死んでくれ)と願う娘」――。おおたわさんの知られざる過去を収めた本書は、見出しだけでもその衝撃的な内容が垣間見える。

1 わたしが医者になった理由、顔色をうかがう子、代理ミュンヒハウゼン症候群、注射器の転がる食卓、壊れていく母、逃げ場所を求めて ほか
2 依存症外来、入院? わたしが? 、父娘の死刑宣告、命がけの大勝負、戦友・父の死、母を殺してしまおう、密やかな最期、消えたノイズ ほか
3 タブー解禁、言えなかった秘密、生きるためのドーピング、贖罪 ほか

悪夢の始まり

 幼稚園児だった頃のおおたわさんが、幼稚園から帰ってきたシーンから本書は始まる。「おかえり」のひと言が聞きたくて、母のもとへと急ぐ。しかし、母は睡眠薬を飲んで、寝室のベッドで眠り込んでいる。これがおおたわさんの「日常」だった。

 おおたわさんの母は、父の二番目の妻だった。かつて看護師をしていた時代に勤務先の病院で父と知り合い、恋愛関係となり一緒に暮らし始めた。しかし、当時父には妻と子どもがいた。いまでいう略奪婚である。昭和の時代、親類縁者からずいぶん後ろ指を指された。「他人の亭主を奪った女という不名誉なレッテルをきれいに上書きする」ため、自分の娘を見事に育て上げ成功者にしようと考えた母は、エキセントリックな教育ママとなった。

 ピアノ、バイオリン、英会話に、計算ドリルのノルマ。少しでも母の思い通りにならないと、教科書やコーヒーカップが手あたり次第投げつけられた。「母の怒りは一旦火がついてしまうと制御不能になる」――。石でできた大きな灰皿が当たり、おおたわさんは額から出血したことも。「母が望むような大人になって成功するよりほかに自分の価値を上げる手段はない」と、必然的に母の期待どおりに医師になる以外の選択肢は消えていった。

 母は幼少期に大病を患ったことがあり、何度も手術を繰り返した。ポリサージェリー患者(多数回の手術経験者)は腹腔内に癒着が生じる可能性が高く、生涯にわたり腹痛発作を繰り返すことがあるという。母はよく「お腹が痛いよぅ」と寝込んだり、鎮痛剤や睡眠導入剤を大量に飲んだりしていた。これが母の薬物常用の始まりだった。

 母は家事も仕事もしない。医師の父は仕事熱心でほとんど家にいない。母にとってこの暮らしは退屈だった。「お腹が痛いよぅ」と体を丸くして倒れ込めば父の気を引くことができた。「痛がる妻をなんとか助けたい一心」で、父は母に鎮痛剤を与えた。1970年代、ちょうど「オピオイド」という注射製剤が発売になったばかりで、これがよく効いたという。

 「でも、これが悪夢の始まりだった。彼女の和らいだ表情が、このオピオイドという魔法のような薬物による異常な恍惚感の表れであることに、医師である父ですら気づいていなかったのである」

「モノクロの記憶に少しだけ色が」

 そこから薬物依存の母と、依存症家族である父娘の暗黒の日々が始まる。40年ほどにわたる壮絶な時間が凝縮されている。当時の現場を目撃したかのような錯覚に陥るほどの迫力、臨場感。冷静でありながら鬼気迫る描写が続く。依存症患者の実態の一端を、まざまざと見せつけられた。

 現在、おおたわさんは刑務所の受刑者や医療少年院の若者の診療にあたっている。医師としては「すごくニッチな職場」であり、「高収入でもなければ先端医療とも程遠い、たいていの医師は食指が動かない不人気な分野」という。

 法務省から声をかけられた際、受刑者の多くに「覚醒剤や麻薬が関連している」と聞いたことが背中を押した。「内科医として、いつか薬物依存者の医療に携わりたい」と思っていた。「これもなにかの導きのような気がして、躊躇わずに踏み込んだ」という。

 おおたわさん自身、「母についての話をこんなふうに語れる日が来るとは、正直思っていなかった」が、亡くなって一年が過ぎようという頃から少しずつ「過去を言葉にできるようになってきた」という。メディアで取り上げられたことで、おおたわさんが依存症家庭で育った事実が知られるようになった。

 「わたしのあのクソみたいな経験が(言葉遣いが悪くて申し訳ないけれど)あったからこそ、できることがある。そう考えると、当時のつらかっただけのモノクロの記憶に少しだけ色が差すのを感じるのである」

 本書を書き進めるうちに「かつてのもやもやした感情が、すっと腑に落ちる瞬間があった」「当時はどうしても理解できないと諦めていた母の心の内が、少しだけ見えたような気がした」と振り返っている。

 読んでいて苦しく、なかなか出口が見えてこない。記憶に残る読書体験となった。「依存症家族は、どうやって道を切り拓いたのか?」という一つのモデルとして、本書から多くのことを教えられた。最後に、医師として、依存症家族として、おおたわさんはこう書いている。

 「ひとりでも多くのかたが依存症を理解してくれることで、救われる人生がある。そのことをぜひ心に留め置いてくだされば、なお幸いです」


 


  • 書名 母を捨てるということ
  • 監修・編集・著者名おおたわ 史絵 著
  • 出版社名株式会社朝日新聞出版
  • 出版年月日2020年9月30日
  • 定価本体1400円+税
  • 判型・ページ数四六判・240ページ
  • ISBN9784022517159

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