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1964東京オリンピック「伝説の閉会式」はこうしてつくられた

幻のオリンピック

 2020東京五輪が延期になり、来年も開催できるかどうかはっきりしない。選手たちは不安な日々を送っている。

 似たようなことが過去にもあった。最悪だったのは1940年の東京五輪だ。本書『幻のオリンピック――戦争とアスリートの知られざる闘い』(小学館)はその経緯を振り返っている。著者はNHKスペシャル取材班。昨年放送された番組「戦争と"幻のオリンピック" アスリート 知られざる闘い」がもとになっている。

水泳の立役者

 1940年東京五輪と2020年東京五輪。同じく予定が狂ったとはいえ、二つの東京五輪には大きな違いがある。「戦争」だ。1940五輪は単に開催できなかっただけではない。出場するはずだった選手たちが召集され、兵士として戦い、戦死した。命まで捧げることを強いられた。単に「五輪中止」のショックにとどまらなかった。もっと悲劇的なことが待っていた。

 本書はそんな大波乱の「幻の東京五輪」について、NHKの取材班が改めて様々な新事実を掘り起こしたものだ。以下の構成になっている。

 第一章 国を背負ったアスリート・鈴木聞多
 第二章 「ベルリンの奇跡」 サッカー日本代表と戦争
 第三章 幻となった東京オリンピック
 第四章 もうひとつのオリンピック
 第五章 一九六四年「平和の行進」

 多数の関係者が登場するが、全体を貫く主人公がいる。水泳指導者の松澤一鶴だ。1932年のロサンゼルス五輪、36年のベルリン五輪で競泳ニッポンの名を世界にとどろかせた日本代表チーム監督だ。

 ロサンゼルス大会で日本は男子水泳6種目のうち5種目で金メダル。ベルリン大会でも男子3種目で金。女子200メートル平泳ぎでは前畑が日本女子選手として初の五輪金メダル。

 この快進撃は、単なる偶然ではなかった。両大会で日本代表チームを率いた松澤の綿密な指導の結果だった。

倉庫から十数冊の古い手帳

 簡単に松澤の経歴を紹介しておこう。1900年、東京生まれ、名門府立一中(現日比谷高校)から一高、東大へと進む。水泳選手として鳴らし、国際大会で優勝したこともある。東大理学部化学科卒。そのまま水泳界に籍を置き、後進の指導に当たった。

 NHKの取材班は今回の番組作りの過程で、日本水泳連盟の倉庫から十数冊の古い手帳を発見した。松澤が1930年代に書き残していたメモだ。細かな文字や数字で、選手たちのタイムなどが書き残されている。それだけではない。素人には全く理解できない「水の抵抗」などに関する数式なども記されていた。理学部出身だけあって、すでに科学的な知識に基づいた水泳理論を組み立てていたのだ。

 1924年に刊行された「運動界」という雑誌で、まだ大学生だった松澤が理論の一端を語っている。

 「水泳の特長の一つは浮力で身体の重さが支えられているために、身体の大小がその運動にあまり優劣を与えない。・・・水に浮いているものは僅かな力で動かしうるのです・・・弱い力でも要領よくなると非常な速力が出ます」

 松澤は40年に予定されていた東京五輪でも指導者として期待されていた。日本は苦労して開催権を手に入れ、スポーツ界は粛々と準備を進めていたが、日中戦争の拡大で自ら返上する羽目になる。

陸軍がまず馬術競技からの撤退を表明

 返上論の急先鋒は軍部だった。「国家の一大事にスポーツなんかにうつつを抜かしている場合か」というわけだ。陸軍がまず馬術競技からの撤退を表明し、返上の流れが具体化する。38年7月、返上決定。体協会長の当時のコメントが本書に出ている。

 「この非常時局に直面しては是非もなき次第である」

 松澤はこのころ体協の理事になっていた。会長とはやや異なる発言を残している。

 「オリンピック東京大会が、きわめて簡単な手続きで取りやめになってしまった。このことだけでも言いたいことは沢山ある・・・」

 41年には体協の事務局長になった。本書には当時、厚生省体育官、内閣情報局情報官、陸軍大佐らと行った座談会記録が掲載されている。

 内閣情報官は、「スポーツというものはスポーツのために存在するのではなく、民族のため国家のため、それから高度国防のため」に存在すると規定。現下の情勢においては、登山も「行軍力増強のための登山」というように切り換えるべきだと主張する。これに対し、松澤は「切り換えないで、両方併せ呑んだらいけないのですか。行軍力も養うが同時にみんなの楽しみになるのだからスポーツをやりなさい、そういってはいけないのですか、今の世の中では――」と疑問を挟む。内閣情報官は「最高の理念は国防のための登山です・・・スポーツの本当の理想は、やはりお国のお役に立つというところになければならんと思うのです」と譲らない。松澤は「非常に狭いですね。その理念はピラミッドの頂点でしょう。下の面積も同時に考えに入れておいてはいかんのですかね」と抗している。当時としてはかなり勇気ある発言だ。

 43年2月には体協事務局長を辞任し、スポーツ用具の配給会社の社長になって終戦を迎えている。

二つの大きな「仕掛け」

 本書には戦没した日本のオリンピック選手の一覧が掲載されている。37人の名が並ぶ。うち水泳や陸上の選手が多い。松澤はオリンピック選手以外も含め14人の教え子を戦争で失ったという。

 「沖縄では慶応の児島、インパールでは立教の新井、硫黄島で亡くなったのは河石・・・私はそれを止めることもできず、ただただ無力さを感じた・・・これから水泳界を担う選手、自分の弟子たち、後輩がたくさん死んでいった」――後年、酒が深くなると、そう言って涙を流すことがあったという。

 戦後の松澤は二つの大きな「仕掛け」をしていることが、本書からわかった。一つは、1948年のロンドン五輪。日本とドイツは参加を認められなかった。しかし、すでに古橋広之進、橋爪四郎という有力選手が国内で快記録を連発していた。そこで松澤たちは一計を案じる。同時期に神宮プールで日本選手権を開催したのだ。400メートル自由形も1500メートル自由形も、古橋らがロンドン五輪の優勝タイムを大幅に上回るタイムを出した。海外通信社が世界に打電し、五輪に参加できなかった日本は溜飲を下げた。

 もう一つは、64年の東京五輪。松澤は開閉会式典の責任者を務めていた。その閉会式で大変なことが起きた。各国選手団が隊列を組み、整然と入場すると思われていたのに、実際には大勢の選手たちが、国籍も性別も肌の色も関係なく、腕や肩を組みながら一団となってなだれ込んできたのだ。天皇皇后両陛下も出席されている場で、予想外のハプニング。

 このスタイルは、のちに「東京方式」「平和の行進」と名づけられ、オリンピック閉会式のフィナーレを飾る、最も感動的なイベントとして定着している。取材班によって、松澤の「仕掛け」の詳細が判明する。

「お前は黙ってろ」

 五輪閉会式の会場となった国立競技場は、戦前の明治神宮外苑競技場。1943年には学徒出陣の壮大な式典が行われた場所でもあった。松澤はそのとき観客席にいて、教え子たちが行進する姿を見送った。何もすることができなかった。戦前、「戦争への行進」として使われたその場所を、松澤は64年の東京五輪の閉会式で、国籍も肌の色も関係ない「平和の行進」の場としてよみがえらせたのではないか――。

 NHKの取材班は、その見立てを具体的に証言してくれる人を必死に探した。あきらめかけていたころ、松澤の下で働いていた吹浦忠正さんが見つかった。当時、まだ大学生だったが、国旗についての並外れた知識が評価され、式典担当の専門職員になっていた。

 吹浦さんはある出来事を鮮明に覚えている。大学生を集めて国立競技場で五輪開会式のリハーサルをやったときのことだ。皆、学生服に学生帽。一糸乱れぬ行進によって、現場は異様な緊張感に包まれていった。吹浦さんがニュース映画などで観た映像を思い起こして、「まるで学徒出陣のようですね」とつぶやいたときのことである。

 「お前は黙ってろ。軽々しく口に出すもんじゃない。おまえに何がわかるんだ」

 ふだんは穏やかな松澤の怒気に圧倒され、言葉を失ったという。

市川崑監督が突然注文をつけた

 東京五輪が始まり、終盤に近づいたある日、スタッフのミーティングがあった。記録映画の撮影を担当している市川崑監督が突然、「もっとくだけた、各国選手が互いに打ち解けたような、競技を終えてリラックスした選手の姿を撮りたい」と注文をつけた。奇想天外な演出は考えられないか、と言い出したのだ。当然ながら式典課の閉会式担当者は反対した。

 「閉会式は天皇陛下も見ておられる中で行われるのです。世界中も注目している。あくまで整然と厳粛に行われるべきです」

 式典責任者の松澤は何も発言しなかった。それぞれのスタッフの反応を見ていた。やがて松澤は数人のメンバーにのみ、隠密計画を伝える。吹浦さんもその一人になった。

 閉会式当日、選手たちは入場口の外で整列する。その列が乱れないように、各国選手団の間にロープが張られる。20メートルほどのロープは、鉤型フックのついたポールに引っ掛けて張られている。そのフックを直前にはずそうというのだ。さすがに本番で実行するときは手が震えたという。結果は、大成功だった。

 閉会式の終了後、吹浦さんを見つけた松澤は、周囲に誰もいないことを確認したうえで「よくやった」と声をかけた。そしてもう一言、「勝手なことをしてしまった」と呟いたという。

 それ以降、二人はこのことについて言葉を交わすことはなかった。あくまで「偶発的に起きた」ということで半永久的に処理するつもりだったからだ。この閉会式から88日後に松澤は急逝した。松澤が市川監督と結託していたのか、などは謎のままとなった。

「いつも田畑さんの傍らで支える参謀役」

 64年の東京五輪で組織委事務総長を務めていたのは、田畑政治(1898~1984)。NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公だ。松澤とは一高、東大の同窓。同じく水泳が専門できわめて親しかった。吹浦さんによれば、田畑は政治家のように剛腕。その知恵袋が松澤。「いつも田畑さんの傍らで支える参謀役」。田畑は松澤に全幅の信頼を寄せていたという。

 閉会式のハプニングは田畑も知っていたのか。それとも松澤の独断だったのか。そのあたりも謎のままだ。

 本書は直接的には1940年の東京五輪をテーマにしている。しかし、「松澤一鶴」という稀有な人物を通して、32年のロサンゼルス五輪、36年のベルリン五輪、40年の五輪返上、敗戦、そして64年の東京五輪へとつながる日本スポーツ界の太い流れを再確認できる。

 64年の東京五輪でロープをはずした吹浦さんは2020年の東京五輪でも、大会組織委員会の一員として国旗を担当する予定だったという。本書の最後のところで「オリンピックは、平和、協調、共感によって国や個人がつながる場であって欲しい」と吹浦さんはコメントしている。それは同時に、松澤の思いであり、戦死した多くのオリンピアンの思いということにもなるだろう。本書をもう一つの「大河ドラマ」として読むことができる。

 BOOKウォッチでは関連で、『五輪スタジアム』(集英社新書)、『警備ビジネスで読み解く日本』(光文社新書)、『アフター1964東京オリンピック』(サイゾー)、『1964 東京オリンピックを盛り上げた101人~今蘇る、夢にあふれた世紀の祭典とあの時代~』(ユニプラン)、『評伝 孫基禎――スポーツは国境を越えて心をつなぐ』(社会評論社)、『オリンピックと鉄道』(交通新聞社新書)、『古関裕而――流行作曲家と激動の昭和』(中公新書)、『選手村マンション「晴海フラッグ」は買いか?』(朝日新聞出版)、『近代東京の地政学』(吉川弘文館)、『皇紀・万博・オリンピック 皇室ブランドと経済発展』(吉川弘文館)、『WHO I AM――パラリンピアンたちの肖像』(集英社)、『孫基禎――帝国日本の朝鮮人メダリスト』(中公新書)、『いま、絶望している君たちへ――パラアスリートで起業家。2枚の名刺で働く』(日本経済新聞出版社)など多数を紹介している。

   


 


  • 書名 幻のオリンピック
  • サブタイトル戦争とアスリートの知られざる闘い
  • 監修・編集・著者名NHKスペシャル取材班 著
  • 出版社名小学館
  • 出版年月日2020年7月20日
  • 定価本体1800円+税
  • 判型・ページ数四六判・242ページ
  • ISBN9784093887649
 

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