明治の新聞人、黒岩涙香をご存じだろうか? 大衆新聞「萬朝報」を創刊し、一時は東京で最も発行部数が多い新聞にまで育て上げた。スキャンダル報道で支持を集め、涙香は「まむしの周六」の異名を取った。一方では「探偵小説の元祖」としても知られた小説家だった。
本書『ミネルヴァ日本評伝選 黒岩涙香』(ミネルヴァ書房)は、多面的な貌をもつ黒岩涙香の本格的な評伝である。
著者の奥武則さんほど、涙香の評伝を書くのにふさわしい人はいないだろう。毎日新聞社で学芸部長、論説副委員長、特別編集委員などを経て、現在客員編集委員。2003年から17年まで、法政大学社会学部教授を務めた。涙香にかんする著書も『蓮門教衰亡史』(現代企画室)、『スキャンダルの明治』(ちくま新書)などがあり、明治のメディアの専門家だ。
来年(2020年)は、涙香の没後100年にあたる。今やその名を知る人は少なくなったが、スキャンダルと報道、新聞社の経営など、その生涯を通じて現代に訴えることは多い。
「序章 大衆社会に先駆けた人」「第一章 『政治の世界』をめざして」「第二章 『政治青年』の挫折」「第三章 『萬朝報』以前」「第四章 『萬朝報』の創刊」「第五章 相馬家毒殺騒動」「第六章 『まむしの周六』の虚実」「第七章 栄光の『萬朝報』」「第八章 たそがれの『萬朝報』」「終章 黒岩涙香とは誰なのか」という構成になっている。
涙香は、文久2年(1862)、現在の高知県安芸市で生まれた。土佐藩の郷士の家柄だったが、坂本龍馬の家とは家格が違い、先祖は長宗我部元親に抵抗した忠臣だったという。養父の黒岩直方(涙香の叔父)は裁判官で、涙香は大阪上級裁判所判事になっていた養父を頼って大阪に出る。その後旧制第三高等学校になった大阪英語学校に入学するが、コレラの流行で学校が休校となり、大阪を離れて東京へ行く。明治14年(1881)慶応義塾に入るが、「黒岩大」の名前で演説三昧の日々。政治青年となるが、英語の成績は良かったそうだ。後に英米の小説を翻訳し、小説家デビューする下地はあった。
ところが明治15年(1882)に筆禍事件を起こす。官吏侮辱罪で有罪判決を受け、横浜の戸部監獄に収監され、政治家への道を断念する。
本書ではこの後、いくつかの新聞を経て「萬朝報」を明治25年(1892)に創刊し、破竹の勢いで部数を伸ばす様子を活写している。創刊号の編集スタッフはわずか4人だった。
この頃、涙香はすでに流行作家になっていた。東京新聞の前身にあたる都新聞で連載小説を書き、部数を2.5倍も伸ばした。東京朝日新聞も高給で引き抜こうとしたが、断る。奥さんは、「もうふたたび雇われて新聞社で仕事はしないと思い定めたに違いない。自らが社主となって、自分の思うままの新聞を作ろう。そう決意したのである」と書いている。
一部一銭という安さも手伝い、萬朝報は部数を伸ばす。3年後の1895年には東京朝日新聞を抜いてトップに躍り出る。と言っても萬朝報は6万6040部、東京朝日は5万3970部だから、今とは桁が違う。涙香は「鉄仮面」など連載小説を書きまくる。デュマの『モンテ・クリスト伯』は『巌窟王』として、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』は『噫無情』として世に出す。しかし、「小説に非ず続き物なり、文学に非ず報道なり」と書き、小説を書いているという認識はなかったと思われる、と奥さんは見ている。
安さと、涙香の連載小説のほかに萬朝報の武器はスキャンダル報道だった。奥州・中村藩(現在の福島県相馬市周辺)6万石の大名だった相馬家のお家騒動のような事件だ。作家・志賀直哉の祖父が家令だったが、旧臣から告発され、逆に相馬家側は旧臣を誣告罪で告発、裁判合戦となった。涙香は権力者側の不正を追及するのは社会正義と考え、他紙を圧倒する大量報道を展開した。発行停止処分を4回受けたが、社会正義を実現する媒体として新聞の役割を認識していた。
この後、涙香は新興宗教、蓮門教をセックス・スキャンダルで追及する。さらに「蓄妾の実例」という連載を始め、森鴎外や伊藤博文ら著名人から無名の一般人まで、本人の実名、住所、妾とされる女性の名前、年齢を挙げて、510の実例をレポートした。副題にある通り、「断じて利の為には非ざるなり」と新聞の「義」、使命を掲げている。
さて、東京で最も部数の多い新聞になった萬朝報だが、日露戦争の報道で後れを取り、涙香が大正9年(1920)に亡くなると、つるべ落としに部数を減らし、最後はわずか3000部になり、昭和15年(1940)吸収合併され消えた。
しかし、奥さんは徒手空拳で「独立新聞」をめざした涙香を高く評価する。生き残った新聞は何らかの形でパトロン的存在がいた、と指摘する。有山輝雄氏の研究を紹介し、典型的な例は政府から極秘に多額の資金提供を受けていた朝日新聞だとしている。
「政府は、朝日新聞社の借入金1万5000円の返済を肩代わりすることで毎月の補助金を与えただけでなく、三井銀行などをダミーにして同社に1万円の出資をしていた」
こうして明治10年代の経営危機を乗り切った朝日新聞社は東京に進出し、「東京朝日新聞」を創刊した。こうした事実はあまり知られていない。
本書では競技かるたや連珠などに打ち込んだ趣味人としての側面のほか、少し複雑なその家庭生活など「涙香のスキャンダル」についてもページを割いている。「まむしの周六」という一面のみで涙香を評価することは出来ず、「スキャンダル報道」にしてもさまざまな位相があったことを明らかにしている。
「棺を蓋いて事定まる」と言うが、涙香は没後100年を迎えて、ようやく評価が定まりそうだ。
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