日本独自と言われてきた前方後円墳が、韓国にもあることが近年しだいに明らかになった。なぜ朝鮮半島にあるのか。日本の前方後円墳とはどんな関係になっているのか。本書『「異形」の古墳――朝鮮半島の前方後円墳』(角川選書)はこの問題について研究者が分かりやすく解説したものだ。日韓両国の学者によるこれまでの研究成果や、様々な推論を丁寧に紹介している。
著者の高田貫太さんは1975年生まれ。岡山大学文学部、同大学院を経て韓国の慶北大学校大学院考古人類学科博士課程修了。現在は国立歴史民俗博物館研究部准教授・総合研究大学院大学文化科学研究科准教授。著書に『古墳時代の日朝関係』、『海の向こうから見た倭国』などがある。
韓国で前方後円墳が見つかっているのは、南西端に位置する栄山江流域。古代の百済に隣接するとみられるエリアだ。1980年代から正確な測量図の情報が伝わるようになり、90年代に入ってさらに学術調査が進んだ。少なくとも14基あるという。墳丘長は数十メートルのものがほとんどだ。築造されたのは5世紀後半から6世紀前半にかけてとされており、日本の前方後円墳の出現よりは相当遅い。
日本以外でも見つかったということの意外性に加え、前方後円墳が日本では単なる墓にとどまらないことが問題を複雑にした。著者は以下のようにまとめる。
「前方後円墳は日本列島独特の墳墓である。それがきずかれた範囲は、ヤマト政権の支配する範囲、東アジア世界では倭とよばれていた範囲とおおむね一致する。それなのになぜ、朝鮮半島の西南部、栄山江流域にまで前方後円墳がひろがっていたのか。それがきずかれた栄山江流域は、ヤマト政権の支配下にあったのか。倭の一部だったのか」
日本列島の前方後円墳(をはじめとする古墳)は、墳形や規模で当時の政治秩序を象徴するとされている。ヤマト政権は、最大規模の前方後円墳が営まれた近畿地方の勢力によって形成された、というのが教科書的な理解だ。ゆえに「栄山江流域」という飛び地のようなところから見つかったことに、多くの学者が頭を悩ましてきたと言える。
本書はまず、この栄山江流域の「前方後円墳」について、どのような名称にすべきかという議論が韓国内で続いていることを教えてくれる。結論から言うと、「前方後円墳」と、「前方後円形古墳」という呼称が半々だそうだ。「前方後円形古墳」を主張する韓国の学者の見解は次のようなものだ。
「前方後円墳という用語は、ヤマト政権によって形成された政治的統合の産物という意味合いから使用されており、前方後円墳という用語を栄山江流域の古墳に使用することは適切ではない。なぜなら栄山江流域に倭系統古墳が築造されたといっても、栄山江流域が倭のヤマト政権の支配を受けていたのではないからである」
では、日本の学界の理解はどうなのだろうか。著者によれば、「日本考古学の枠組みで、栄山江流域が倭王権を頂点とする広域な政治秩序に組み込まれていた、と明言する日本の研究者はほぼ皆無」だという。「倭の境界領域における例外的で特殊な現象」と把握されることが多く、「日本の学界では、朝鮮考古学や日朝関係史の枠組みの中で議論されている内容を参考としながら、栄山江流域の前方後円墳は当時の倭と百済・栄山江流域との政治経済的な関係の中で営まれた、という把握の仕方が一般的」なのだそうだ。
というわけで、名称問題は別として、少なくとも日韓の学者の間では、この地域の前方後円墳の理解についてそれほど深刻な違いや対立はなく、長年の学術交流の中で、冷静な議論が行われているという。
本書は「序章 なぜ研究するのか」、「第一章 前方後円墳が出現するまで」、「第二章 前方後円墳を歩く」、「第三章 栄山江流域社会と前方後円墳」、「終章 いま、前方後円墳からみえること」に分かれている。
「第一章」で著者はこの問題を考える前段として、まず朝鮮半島と日本列島との長い交流を振り返る。現在の考古学的知識によれば、日本列島で最初に水田耕作が始まったのは北部九州。それは朝鮮半島からもたらされたものだという。このことを示す考古学的な証拠は多数あるそうだ。しかも単なる農工具や技術だけでなく、新しいタイプの土器や住居や墓、武器、防御施設、農耕に関する儀礼なども含めた、水田耕作を生産基盤とする農耕文化の総体――学術用語では「文化複合体」――が朝鮮半島から渡来人の手によって伝えられたという。それが日本列島の弥生文化をつくったそうだ。
確かに、それに類することは、BOOKウォッチで紹介した『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』(新泉社)にも出ていた。奈良の唐古・鍵遺跡は弥生時代最大級の「ムラ」として有名だが、成立させたのは、縄文人ではなく、稲作農耕の技術と文化をたずさえて新たに来た人であり、渡来系の可能性が高いことを、著者の藤田三郎・奈良県田原本町埋蔵文化財センター長は示唆していた。
つまりかなり古い時代から朝鮮半島と日本列島は濃厚な交流を繰り返していた。栄山江流域に前方後円墳が出現するに至る相当以前から、双方の人々は行ったり来たりしていたというわけだ。それは朝鮮半島各地で、「倭系」とみられる考古遺物が見つかっていることからも明らかであり、そのあたりについても本書は詳しい。
そして高田さんは、栄山江流域に前方後円墳が出現した5世紀とは、朝鮮半島から須恵器や鉄器、金工品、馬の生産、カマドなど新しい情報が渡来人を通して伝わった時代だったと強調する。これらの渡来人が残した日常使いの土器には、栄山江流域や周辺に系譜を求められるものも数多いという。この地域と倭との関係が双方向だったことをうかがわせる。
「第二章 前方後円墳を歩く」では著者が、まるで考古学ガイドのように丹念に現地を歩き回り、詳細な地図を掲載している。写真も付いているので、考古学ファンで実際に現地を見たい人にとっては大いに参考になるだろう。これらの前方後円墳や、現地に残る「倭系墓」などの造営主体はだれだったのか。高田さんは、その地域に生活基盤を持つ現地集団であり、倭人が、それまで人びとのあまり住まなかった「無主」の地にやってきて、勝手にきずいたというのではないと断言する。
「第三章」では、なぜ前方後円墳がきずかれたか、短期で消えたか、被葬者はだれかということに踏み込んでいる。本書のポイントでもあるので、種明かしは避けて実際に読まれることを勧めたい。
本書で痛感するのは、古代のもろもろのことを「朝鮮」とか「日本」とか言って単純に区分けすることの難しさである。今の日本人が思っている以上に、古代においては双方の関係が深かった。日本側でも韓国側でも、遺物から双方の「雑居」をうかがわせる遺跡が少なくないそうだ。
著者は5世紀を朝鮮からもたらされた「技術革新の世紀」と書いている。つづく6~8世紀は、漢字や仏教伝来で寺院建築、合金製の仏像づくりなどが加速し、さらに関係が緊密になっていたはずだ。聖徳太子の仏教の師は高句麗僧だったと言われるが、太子はおそらく複数言語に通じていたはずだ。田中史生氏の『渡来人と帰化人』(角川選書)によれば、平安時代初期に京や畿内に住んでいた氏族の名前の30%が中国や朝鮮をルーツとする人たちだったという。当時編纂された『新撰姓氏録』(815年)から分かるそうだ。
本書は「謎の前方後円墳」について、最新の研究成果をもとに、歴史的視野を広げて分析した良書と言える。加えてそれ以上に印象に残ったのは、日韓の学者間で実に緊密な連携と交流がおこなわれているということだ。高田さんは韓国に留学しているが、韓国側でも日本留学者が少なくない。高田さんと共同研究している日韓13人の研究者は、いずれも「気心の知れた」人たち。旧知の学者に会うと、「満面の笑み」であいさつを交わし、「ガシッと握手」、「酒を酌み交わしながら議論に花が咲く」というのだ。日韓関係がごたついている時だけに、両国の政治責任者には伝えたい光景だと思った。
BOOKウォッチでは関連で『古代韓半島と倭国』 (中公叢書)、『戦争の日本古代史――好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)、『古代‐近世「地名」来歴集』(アーツアンドクラフツ)なども紹介している。
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