世間的にはメジャーな本ではないと思う。『増補 遥かなる故郷 ライと朝鮮の文学』(皓星社)。
「ライ」、すなわちハンセン病に対する一般の関心は高いとは言えない。もう一つの「朝鮮」についても同じだろう。どうして今ごろ「増補版」が出版されるのか。そこが気になった。
著者の村松武司さん(1924~1993)は編集者で詩人で評論家。年譜から分かりやすい経歴を拾うと、戦後「現代詩」「造形文学」などを編集し、河出書房新社やダイヤモンド社でも編集者をしていた。雑誌「数理科学」の編集長も務めた。「新日本文学会」や「思想の科学」にも属していた。いくつかの詩作品も発表し、晩年は小さな出版社も経営していた。
79年に本書と同じタイトルの『遥かなる故郷 ライと朝鮮の文学』(皓星社)を出版している。没後の94年には遺稿集『海のタリョン』が編まれ、今回の「増補版」は両書を合体した形になっている。残念ながら、なぜ今改めて「増補版」を出すことになったのか、特に説明されていなかった。
村松さんは一人の日本人として、きわめて特異な経歴の人だ。生まれたのは「京城」(現在のソウル)。しかも父方も母方も、どちらもかなり昔に朝鮮半島に渡っており、村松さんは「植民者三代目」だという。21歳で「帰国」するまで、日本を知らなかった。ただし、現地では日本人に囲まれていたので、「朝鮮人の友人はまことに少なかった」という。
だから村松さんはいわゆる「引揚者」とはややニュアンスが異なる。そんなこともあり、本書に記されている「8月15日」の体験記は、きわめて興味深い。
戦争末期の1944年、村松さんは召集され、仁川の電波兵器士官学校にいた。敗戦の翌日のことをこう回想している。
どこからか「蛍の光」の歌声が聞こえてきた。その歌詞は日本語ではなかった。やがて学校の国旗掲揚塔から日章旗が落ち、代わりに朝鮮の旗が掲揚される。士官学校に在籍していた朝鮮人青年たちの歓声が上がった・・・。
前日、天皇の放送を聞いて、村松さんは日本軍人として泣いた。そして翌日、朝鮮の旗が揚がるのを見て、再び泣いたという。朝鮮で新しい国家が生まれたのに、朝鮮に生まれ育った自分は参加していない・・・。
「初めて朝鮮から突き放されたむなしさ、淋しさがわかった。私の心はちがうのだ、きみたちに近いのだ、と叫んでも、もう決して通わないであろうということがわかった。私は、声をあげて泣いた」(自著『朝鮮植民者』より)
村松さんにとって日本は完全に異郷になっていた。日本に戻ると言っても「引揚者」ではない。故郷喪失者。日本からも朝鮮からも疎外を強いられていた。そんな捻じれきった数奇な個人史が、このワンシーンに凝縮されている。
日本にたどり着いて、村松さんは戦後の生真面目な文学運動に関わるようになる。友人の詩人の後を受けて、群馬県のハンセン病施設「栗生楽泉園」文芸誌「高原」の選者にもなった。そこでハンセン病とのかかわりが深まる。日本の療養施設に暮らすハンセン病者には、在日韓国・朝鮮人も少なくなかった。
ある日、療養所から分厚い手紙が届いた。差出人名は「吉北一郎」とあった。「わたしの歩んできた道」という原稿が同封されていた。朝鮮生まれ。貧窮で日本に渡り、仲間の朝鮮人29人と北九州の炭坑へ。そこで手配師に名前を付けられる。なににしようか・・・よしきた、はじめが一郎、次が二郎、その次が三郎。というわけで自分の日本名は「吉北一郎」になってしまったのだという。「創氏改名」のリアルな一端が記されていた。
増補版の本書では、『遥かなる故郷』の原著にはなかった年譜が掲載されている。編集を担当した翻訳家、斎藤真理子さんの「解説」も充実している。村松さんの人生が精密に浮かび上がってくる。
昭和が遠くなって平成も幕を閉じる。もはや村松さんのような、苦い記憶と陰影を背負った日本人はいないだろうとしみじみ思う。その意味でも本書は、忘れられつつある戦後文学の一隅に光を当てた貴重な記録だ。
本欄では関連して、『火花――北条民雄の生涯』(七つ森書館)、『ザ・ディスプレイスト――難民作家18人の自分と家族の物語』(ポプラ社)、『近代日本・朝鮮とスポーツ』(塙書房)、『無冠、されど至強』(ころから刊)、『朝鮮大学校物語』(株式会社KADOKAWA)、『阿片帝国日本と朝鮮人』(岩波書店)なども紹介している。
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