松尾芭蕉が忍者だったという説は1960年代半ば(昭和40年代の初め)に登場し、小説やドラマなどでさまざまに脚色され描かれている。黒い忍者衣装で夜陰に紛れて...などというのは盛り過ぎだが、その足取りなどを追えば、諜報活動に従事していたことは間違いないという。たとえば、隅田川沿いの「芭蕉庵」では、芭蕉は出入りの船の見張りを命じられていたという。
芭蕉の「おくのほそ道」の旅は、平安時代末期~鎌倉時代初期にかけての歌人として知られる西行を慕い、その跡を追ったものだ。芭蕉も西行も前身は武士。距離感は異なるものの、ともに、それぞれの時代の権力の陰の部分で動いた様子がときおり歴史のなかで顔を出す。何かのミッションを担ったような漂泊ぶりが共通しており、小説『西行と清盛』の著作がある作家の嵐山光三郎さんは「西行から芭蕉へ」という流れを論じる企画をかねてより温めていたという。
本書『影の日本史にせまる 西行から芭蕉へ』(平凡社)は、嵐山さんが「圧倒的力量がある」と評価する歴史家、磯田道史さんを迎えて、自らの企画を実現させた対談集。磯田さんは、西行や芭蕉らを指して「聖人のような美しい芸術家としてイメージされやすい。しかし、現実はそうではない。彼らには、権力の影に生きていた顔がある」と述べ、嵐山さんの企画にわが意を得たりといわんばかり。対談ぶりからもノリノリな様子がうかがえ、嵐山さんも大いに興が乗ったと述べている。
西行は、当時のエリート中のエリートである鳥羽上皇の北面の武士を務めたことが知られており、大河ドラマをはじめ平家がテーマの物語などでも、人物像はしばしばフィーチャーされる。西行についての2人の対談のツカミになっているのは、6年前のNHKの大河ドラマ「平清盛」だ。西行について、ドラマをきっかに、その異能ぶりや超人ぶりが語られる。
ところが芭蕉となると、影の姿である「忍者」や「忍び」については、あり得ない黒装束を着たようなデフォルメされた姿で伝えられることが多く、アカデミックに取り扱われることはほとんどない。嵐山さんは「国文学者による西行から芭蕉に至る『流浪する詩人』の文献解釈は詳細を極めるが、その時代背景の知見は偏向している。芭蕉が江戸幕府の巡見使となる曾良と『おくのほそ道』を旅したのは厳然たる事実なのに、芭蕉の旅が諜報を兼ねていたとなると感情的なまでに無視する」とぷんぷんだ。
磯田さんは、エンターテインメント的な取り上げ方の先行が目くらましになっていることを指摘する。当時の情報活動に携わっていたという指摘が、イコールで忍者のイメージに結ばれ、黒装束で手裏剣を飛ばすということになるが、そうではなくて、たとえば、俳諧の席で仕官の武士と世間話をすれば藩主の様子が話題にもなる。「そこに曾良が同席していれば、すぐに幕府の要路に報告されたとみるべき。芭蕉が忍者か隠密かという話はそういうレベルのこと」という。
本書で語られる「そういうレベル」でも、芭蕉の隠密活動は非常に興味深い。たとえば、前述の「芭蕉庵」。東京都江東区の小名木川と隅田川が交わるところにある、芭蕉のかつての住まいで、跡地は現在「史跡展望公園」になっている。ここで芭蕉は、千葉・銚子から利根川経由で江戸に出入りする伊達家の船の見張りをしていたのではないかという。創作のための場所ではなかった。
俳人だけではない芭蕉の姿を知ると、その名句の解釈も新たになる。山形・山寺での「閑さや岩にしみ入る蝉の声」。「蝉」をめぐってはかつて文学者らの間で、アブラゼミかニイニイゼミかという論争が展開され、現地で調査も行われたらしい。だが、行程などの記録などを合わせて検討してみると、嵐山さんらの解釈では、かつての主君である藤堂良忠への追悼句であるという。良忠の俳号は「蝉吟」だった。
J-CAST BOOK ウォッチではこれまで、磯田さんの著作のうち『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』『戦乱と民衆』(共著)『日本史の内幕』を取り上げている。
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