日本史では最近、「定説」がぐらつくことがよくある。蒙古襲来は神風で撃退した、などというのはその典型だ。
本書『つくられたエミシ』(同成社)もそうした流れの中の一冊といえそうだ。いわゆる「蝦夷征伐」は、実はなかったというのだ。著者の松本建速さんは東海大学文学部歴史学科考古学専攻教授。
教科書などで「常識」となっている「蝦夷征伐」。坂上田村麻呂の名前はあまりに有名だ。その名も「征夷大将軍」として何度か東北に赴き、朝廷にまつろわぬエミシを制圧、首領のアテルイを降伏させたとされる。8世紀末から9世紀初めごろの話だ。これによって朝廷の勢力範囲は大いに広がり、エミシが二度と反抗できぬように胆沢城などを築いておおむね本州全域の支配を確立したという。
東北北部にはアイヌ語起源の地名が少なくない。そんなこともあって、このエミシとは今のアイヌ民族の祖先だと受け止める向きが多かった。のちに和人に同化し、アイヌ語を忘れて、日本語を話すようになったという見立てだ。
著者は、こうした考え方は、古代の日本国が創作した歴史を信じ、その物語に沿って考古学資料を当てはめたことによって生まれたと見る。実際には、7世紀以降の東北地方にアイヌ語を話すようなエミシはいなかった、当時そこに住んでいたのは日本語を話す人々だと言い切る。すなわち、これまで語られてきたのはフィクションだというのだ。ただし、5世紀以前にはアイヌ語を話す人々がおり、アイヌ語の地名が残ったということを、考古学的な手法で説明する。エミシは漢字では毛人、蝦夷などいろいろな表記があるので、本書ではエミシに統一している。
著者の論述の中で、「目からうろこ」だったのは、土器の分布を軸にした分析だ。単純にまとめると、文字のない時代に、同じ形式の煮沸用の土器を使っていた人たちを同じ集団だと考える。
東北北部と北海道では、5世紀前半まで同じ形式の続縄文式土器が使われていた。しかし7世紀になると、東北北部では、同時代の北海道で使われていた続縄文土器ではなく、弥生式土器の流れをくむ土師器を使うようになる。本州から九州まで幅広く使われていた土器だ。同時代の古墳文化が流入した証であり、それに応じて集落遺跡や考古遺物も変化する。つまり、すでに「蝦夷征伐」の前に、東北北部にはいわゆる開拓民、移住者が入り、様相がかなり変わっていたということになる。
ではなぜ続日本書記などで「蝦夷征伐」を書いているのか。著者は、「日本」がもはや昔の「倭国」ではなく、東夷が朝貢してくる、中国と同様の大国であることを示したかったのではないかとみる。実際、「蝦夷征伐」は時の権力者がつくった「正史」にしか登場しないという。
その後、東北でも忘れられていた「蝦夷征伐」の話は明治になってよみがえる。近代国家として領土拡張の機運が強まってからだ。教科書などでも教えられるようになり、「蝦夷征伐」は帰順せぬ民を制圧した大昔の成功物語として大々的に国民に刷り込まれた、という。
著者によると、平安時代の私撰歴史書『扶桑略記』には8世紀初めにエミシが馬を貢いできたという記述がある。馬を貢ぐとは帰順したということだ。ところが、アイヌ民族は馬を飼わない。また、平安時代の法令集『類聚三代記』には出羽あたりの国司がエミシと交易をしているので禁止令を出したことが記されている。「正史」では「蝦夷征伐」の戦いが続いていたはずのころだ。8世紀後半から、東北北部には多賀城など「エミシ対策」の「城柵」が設けられたとされるが、これについても著者は、軍事上の施設ではなく、政庁、官衙とみる。
また、秋田などのマタギの用語にアイヌ語の語彙が多いことから、マタギを「アイヌの末裔」と見る向きもあるが、著者は否定する。ヒグマを仕留めるような凄腕のアイヌの狩人と出会い、かれらの狩猟用語を吸収したにすぎないとみている。実際、マタギは鉄製の槍を使うが、アイヌは毒矢。毒の調合は秘密にして教えなかったという。
本書では言語学、文献史学も含め多岐にわたる史料から論証を試みた労作だ。「正史」の全否定なので、おそらく異論もあるだろう。だが、国家が都合の良いフィクションをつくる、ということは先の戦争などで経験ずみだ。「常識」や「定説」、「国が言うこと」について今一度、立ち止まって考えることの大切さを痛感する。
BOOKウォッチでは、関連書籍としてすでに『蒙古襲来と神風』『アイヌ語地名と日本列島人が来た道』なども紹介している。
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