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トランスジェンダーの哲学者が考える。「差別発言はなぜいけないのか」

言葉の展望台

 「きれいにご利用いただきありがとうございます」の「ありがとう」は成立している? 誠実な謝罪と不誠実な謝罪とはどういうものなのか? コミュニケーションはややこしい。思ったことが伝わらなかったり、思いもよらない意味で伝わってしまったりする。哲学者の三木那由他さんは、このような言葉とコミュニケーションの謎について研究している。

 三木さんの著書『言葉の展望台』(講談社)は、「エッセイと評論のあいだ」という体で書かれている。言葉を哲学的に考えると、意味の伝達としての役割など、いくらでも客観的に論じられる。しかし、言葉は私たちが日常的に使っているものだ。実際に言葉を話し、受け取っている実感なしには語ることができない。三木さんは本書で、客観的な「哲学者」であると同時に、主観的な「私」として、言葉とコミュニケーションについて考える試みをしている。


差別発言がもたらすのは、「差別的振る舞いの許容」

 2021年5月19日・20日におこなわれた「LGBT理解増進法案」に関する自民党の会合で、一部の国会議員がLGBT+の人々に対して「生物学上、『種の保存』に背くもの」、「道徳的に認められない」などの差別発言をした。三木さんは、本書の「哲学と私のあいだで」でこれを取り上げ、「差別発言によってもたらされるものとは何なのか」を論じている。

 三木さんは、メアリー・ケイト・マクゴーワンという哲学者の考え方を引いている。マクゴーワンによると、言葉は「どういった振る舞いが現在許容されているか」に影響を与えるという。たとえば、飲み会の翌日に「どの女を持ち帰ったか」と語る男性たちがいたら、彼らは単に昨晩の事実を知りたがっているのではない。その会話によって、「女性を一種のコレクションアイテムと見なすような態度や言葉」がその場で許容されるようになるのだ。

 LGBT+の人々に対する差別発言も同様だ。会合で差別発言をすることで、「私はこう思うし、みなさんもこんなふうに差別してよいですよ」という許可を出し、環境を変化させてしまう。差別発言が「単なる言葉」にとどまらない実害は、このような点にある。

でも、それだけ?

 ここまでは、三木さんの「哲学者」としての論だ。しかし三木さんは同時に、こんな思いを抱くのだという。

だが実のところ、こうしたテーマについて哲学的に語ろうとするたびに、本当に語りたいことに言葉が届いていないという感触があり、いつもどこか居心地の悪さを感じてしまう。マクゴーワンの分析は確かになぜ差別発言がこの社会において悪しきものであるのかをうまく捉えているとは思う。その一方で、「社会の話としてはそうなのかもしれないが、それは私のこの痛みではない!」と言いたくなるのだ。(太字部分は本文では傍点)

 というのも、三木さんはトランスジェンダーの当事者である。三木さんは問題の議員の発言を知ったとき、動揺して仕事帰りの電車で涙ぐんでしまったそうだ。これは三木さん自身にとっても予想外のことだった。問題となった発言は、三木さんにとってはどれも「はっきり言えば、(中略)幼少期から見慣れ、聞き慣れたもの」だったそうで、「私はもうそんな程度の発言で傷つくことなんてない」と思っていた。しかし実際は、問題の発言は涙が出るほど三木さんを傷つけたのだ。

何がこんなにも苦しいのだろうか。言葉そのものではないし、それを議員が言ったという事実でもない。

 三木さんは、自分がこんなに傷ついたのは、議員の発言が「子どものころからつい最近に至るまで、私自身が自分に投げかけてきた言葉」だったからではないかと考える。三木さんは幼稚園生のころにトランスジェンダーを自覚してからずっと、「自分は間違った存在だ」「道徳的に/生物学的に許容されない存在だ」と思い、将来の夢すら考えられないほど絶望していたのだという。差別的な思想を内面化してしまっていたのだ。

 今の三木さんは、もうそんなふうに考えることはない。しかし、議員の言葉を聞いて、かつて自分で自分を苦しめていたときの痛みが蘇ってしまったのだ。それはほんのいっときの蘇りだとしても、簡単に手に負えるものではない。このような痛みは、「私」の実感からしか語ることができない。哲学者が客観的に言葉の機能や役割だけを論じていたら、取りこぼしてしまうものだろう。しかし、三木さんが感じた痛みは、確かに言葉の刃の実害としてある。

 本書では他にも、差別にまつわるテーマから、マンスプレイニングや謝罪の誠実・不誠実、「すだちとレモンの取り違え」まで、身の回りのあらゆる言葉とコミュニケーションの謎について考えている。「哲学者」と「私」のあいだ、評論とエッセイのあいだで揺れ動くことで、新しい何かが見えてくる。


■三木那由他(みき・なゆた)さん
1985年、神奈川県生まれ。2013年、京都大学大学院文学研究科博士課程指導認定退学。2015年、博士(文学)。現在、大阪大学大学院人文学研究科講師。著書に『話し手の意味の心理性と公共性』『グライス 理性の哲学』、共著に『シリーズ新・心の哲学1 認知篇』、共訳書にブランダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』がある。


※画像提供:講談社




 


  • 書名 言葉の展望台
  • 監修・編集・著者名三木那由他 著
  • 出版社名講談社
  • 出版年月日2022年7月21日
  • 定価1,430円(税込)
  • 判型・ページ数四六判・160ページ
  • ISBN9784065283455

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