ぼくは父であり、母であった。
シングルファザーになったあの日から
小説家・辻仁成さんのエッセイ集『パリの空の下で、息子とぼくの3000日』(マガジンハウス)が、2022年6月30日に発売される。
本書は辻さん主宰のWebサイトマガジン「Design Stories」のコラムを抜粋・再構成して一冊にしたもので、辻さんがシングルファザーになったとき10歳だった息子が、18歳になってフランスの大学に合格するまでが綴られている。反響が大きく予約が殺到し、発売前に重版が決定した。
〈まえがきに代えて〉
1月某日、シングルファザーになった時の絶望感はいまだ忘れられない。あの日から息子は心を閉ざし、感情をあまり見せない子になった。なんとかしなきゃ、と必死になり、どうやったら昔みたいに笑顔に包まれた日々を戻すことができるだろうと考えた。
(中略)
料理好きの友人から、トマトの中には必要な栄養が詰まっているから、トマトが好きなら、とりあえず、トマトを食べさせてね、と言われた。藁にも縋る日々だったけれど、トマトに救われた。息子は、トマトとガーリックのパスタをよく食べるようになった。それで、そこにツナを入れたりいろいろと工夫を凝らすようになる。
「おいしい?」と訊いたら、小さく頷き、「うん、おいしい」と返ってきた。
なんでもないやりとりだったけれど、あれは家族再生の最初の一言だったと思う。
〈2018 息子14歳〉
クリスマス・イヴに父子は子供部屋のベッドの上でEnglishman in New Yorkをセッションした。子供部屋の窓の外に隣の建物の窓が見える。ささやかな植物が飾られてある。淡いクリスマスの光がそこに降り注いでいる。幸せというものは欲ばらない時にすっとやってきて寄り添うこういう優しい光のようなものじゃないか、と思った。
〈2019 息子15歳〉
「パパの音楽ってさ」こういう言い方をする時はだいたい批判の始まりである。
「何かユニバースが足りないんだよ。もっとパパにしか作ることのできないユニバースを出した方がいい。日本の音楽って、全部どれも同じに聞こえる。ロックも歌謡曲もポップスもラップでさえ境目がないというのか、テレビの影響が強すぎて、同じ、綺麗事で終わってる。そういうものの中にパパがいて偉そうにしているのはよくない。まだ若いし、チャンスあるし、冒険をしないとダメだよ。せっかくパリにいるのに、何してるの?」
ぼくは一瞬、頭に来たけど、その通りだと思ったので、がんばるよ、とだけ言っておいた。「お前もそれだけのことを言うからにはものすごいユニバース出せよ」と言った。
〈2020 息子16歳〉
親子の交流は土曜日のランチというのがいつの頃からか辻家の決まり事となった。息子が話しやすい環境を作るため、ぼくは彼の好物の餃子を作ることにした。ということで今日のランチは餃子ライスである。餃子がなくなるまで話ができるよう、ぼくは餃子を百個拵(こしら)えることになる。
〈2021 息子17歳〉
このあいだ、実は息子とは2時間くらいぶつかり合った。大きな声で言い合ったのだ。殴ったりはしなかったけど、ぼくが息子の鼻先に指を突きつけた時、それを払うように息子がぼくの手をものすごく強く摑んだ。それは生まれてはじめての経験だった。
大人に成長したのだ。はっきりとした意思をぶつけられたので、ぼくはうろたえ、泣いた。それで、ふと思い出した。もしかしたら今年は、13回忌じゃなかったか、と思ったからだ。父さんが他界してちょうどそのくらいの年月が流れている。
〈2022 息子18歳〉
1月某日、朝早く目が覚め、息子が起きてくるのを待った。待ちながら、ベッドに腰かけ、今日までの長い年月のことを考えた。いろいろとあったけど、不思議なことだが、嫌なことは思い出せない。息子と一緒に生きてきた日々が脳裏を過っていく。
父と息子ふたり、パリでつくった「家族」のかたち。どん底にいた二人は、3000日間を経てどう成長し、どんな幸せを見つけたのだろうか。
【目次】
まえがきに代えて
2018 息子14歳
2019 息子15歳
2020 息子16歳
2021 息子17歳
2022 息子18歳
あとがきに代えて
■辻仁成さんプロフィール
東京生まれ。1989年「ピアニシモ」で第13回すばる文学賞を受賞。97年「海峡の光」で第116回芥川賞、99年『白仏』の仏語版「Le Bouddha blanc」でフランスの代表的な文学賞であるフェミナ賞の外国小説賞を日本人としてはじめて受賞。『十年後の恋』『真夜中の子供』『なぜ、生きているのかと考えてみるのが今かもしれない』『父 Mon Pere』他、著書多数。近刊に『父ちゃんの料理教室』『ちょっと方向を変えてみる 七転び八起きのぼくから154のエール』『パリの"食べる"スープ 一皿で幸せになれる!』がある。パリ在住。
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