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「鬼は外」は「感染症は出ていけ」のことだった!

天変地異はどう語られてきたか

 新型コロナウイルスが拡散しているなかで、実に含蓄に富んだ本が出た。『天変地異はどう語られてきたか――中国・日本・朝鮮・東南アジア 』(東方選書)。共同で「天変地異の社会学」を研究してきた9人の大学教員が、それぞれの分野ごとに分担して執筆している。執筆代表者は中国思想史の串田久治・桃山学院大学教授。

 日本について何が書かれているのか。そう思いながらページをめくると、切り口の鋭い勉強になる論考があった。「『日本』の誕生と疫病の発生」。執筆者は日本史学者の細井浩志・活水女子大学教授だ。

貴族の4割が死亡

 古代の日本をしばしば疫病(感染症)が襲ったことはよく知られている。当時の人々はそれをどう受け止め、対処したのか。ウイルスはおろか、細菌の存在も知らない時代だ。原因が何なのか、どうしてバタバタと人が倒れ、病気があっという間に広がるのか。パニックになったことは想像に難くない。著者の細井さんは古史に書き残された記述をもとに振り返る。

 まず6世紀。仏教推進派の蘇我稲目が仏像を祀ったところ、疫病が流行した。仏教反対派の物部氏らが仏像を難波の堀江に流し、寺に火をつけたという記録が残っている。しばしば日本の疫病は、仏教とともに伝来したともいわれるゆえんだ。

 7世紀後半に律令国家が成立すると、いちだんと疫病が増える。『続日本紀』によると、慶雲二(705)年には「20か国で飢餓と疫病」があったことが記されている。

 有名なのが天平九(737)年の大流行だ。全国に広がったが、奈良の都の被害が大きかった。政権がほとんど壊滅状態に追い込まれたという。

 きっかけは前年に新羅に派遣された遣新羅使だったとみられている。大使の阿倍継麻呂が新羅で罹患して帰路の対馬で亡くなる。一行は年明けに平城京に戻ったが、あちこちに疫病が拡散。とりわけ平城京のダメージは甚だしく、大臣・中納言・参議などの政権首脳が次々と亡くなった。病人続出で宮中の定例行事も取りやめになった。当時、貴族とされていた五位以上の4割が死亡したそうだ。疫病地域として九州、伊豆、若狭、伊賀、駿河、長門などが記されている。

 この疫病で政権は中軸の藤原4兄弟らを一気に失った。彼らは、長屋王を自殺に追い込んで権力を握っていたとされる。そんなこともあり、当時、この疫病は長屋王の怨霊によると認識されたらしい。疫病発生後に、長屋王の遺児たちが急に位を進められているという。

聖武天皇の苦悩

 著者の細井さんは古代における疫病の流行を、現代の感染学の知識も踏まえながら考察している。

 疫病(感染症)が流行するには、大別して二つの段階がある。まず、誰かが感染する、そしてその感染者が短期間に広範囲に移動することで被害が広がる。

 古墳時代になって日本列島に馬が持ち込まれた。すばやく長距離の移動が可能になる。その後、統一国家づくりが進んで、東海道、山陽道など中央と地方を結ぶ交通網が整備された。人や物の動きが活発になる。朝鮮半島や中国との対外交流も盛んになり、使節団の往来も増えた。

 

 つまり、7世紀後半に成立した中央集権型の律令国家は、疫病が拡散しやすい社会を作り上げていた。病原体が持ち込まれると、国内で一気に広まりかねないインフラができていたといえる。

 この時代の聖武天皇(701~56)は疫病の蔓延や天候不順による飢餓、大地震などに深く悩んでいた。そして人身一新を図る究極の国家的プロジェクトとして東大寺の大仏造営に着手する。仏法の威霊によって天地が安泰となることを祈ったのだ。BOOKウォッチで紹介した『東大寺のなりたち』(岩波新書)には、聖武天皇の当時の切実な思いが紹介されている。

「日本」成立と「疫病」の関係

 このころの疫病はいずれも新羅からもたらされたとみられている。705年の疫病流行では、直前に新羅から貢調使が来日していた。737年の流行は、新羅に行った遣新羅使が持ち帰ったといわれる。実際のところ、この遣新羅使は新羅に受け入れられないまま帰国したのだが、それは、すでに新羅では疫病が流行していたからではないかと細井さんは推測している。

 節分の豆まきのルーツといわれる宮中行事に「追儺」(ついな)がある。疫病を引き起こす鬼を、日本の領域の外に追い出す儀式だ。中国の「大儺」を模したもので、日本では8世紀に始まったそうだ。日本と外国を分けて、外国を疫病がやってくる場所とする考え方が反映されている。疫病が何度も流行したからこそ、このような行事も人々に受け入れられたのだろう。「鬼は外」の鬼とは、外国から来た疫病神のことでもあるのだ。

 かつて倭国と朝鮮半島の国々は様々なルートで多彩な交流を続けていた。双方の「雑居」をうかがわせる考古遺跡も少なくないことが、『「異形」の古墳――朝鮮半島の前方後円墳』(角川選書)に出ていた。しかし、倭国が日本に、朝鮮が新羅という統一国家になって、両国の間には明確な国境があるという意識が生まれる。その新羅から疫病が持ち込まれ、日本国内に一気に広がる――細井さんは以下のように記す。

 「八世紀前半の疫病の流行をみていると、日本国の成立が『日本』という単位で疫病流行を引き起こしたことがわかる」
 「国内と海外との違いを生み出し、疫病がやって来る外国に対して一種の恐怖感を感じさせる結果になった」
 「病気もナショナリズムと無関係ではありえない」

 BOOKウォッチで紹介した『感染症の近代史』(山川出版社)によると、コレラは日本では1822年、初めて流行して多数の犠牲者を出した。オランダ船から長崎に流入したとみられている。「その原因は日本を外国に『開放』したからと当時の日本人は考え、外国人を敵視するようになった」(同書)。いわゆる「攘夷」の一因になったというわけだ。天平期の人々と重なる部分がある。

 古代の疫病流行の理由については、当時は怨霊、神仏の祟り、因果応報、政治が良くないなどいろいろな説があった。改元したり、怨霊を鎮めるための神社をつくったりしたことはよく知られている。実際に流行した疫病としては、天然痘、麻疹、腸チフスなどが想定されている。度重なる流行で人々の免疫力が高まると、耐性もついて、一定の安定状態となったようだ。

禍福の両面から議論

 本書は、第1部「宗教と天変地異」、第2部「王権と天変地異」、第3部「外来者と天変地異」、そして巻末の「座談会」という構成。「失政が天変地異を招く――儒教」、「『大地震動』は吉祥――仏教」、「地震は神の徴か?――イスラームの進行と災害」、「天変地異におけるキリスト教の預言と希望」など宗教関連のテーマのほか、沖縄や近代朝鮮など、地域に即した切り口もある。「座談会」では「天変地異の両義性」、すなわち禍福の両面について議論されている。

 本書のもとになった研究会は2005年から19年まで続けられた。執筆代表者の串田さんは、「アジア各国に語り継がれ記録されてきた『天変地異』の言説や逸話を学術書として刊行することの意義は極めて大きい」と強調している。実際に研究者たちが震災後の東北や熊本を訪れ被害を肌で感じたことも、本書の大きな内的要因になっている。「歴史の教訓や先人の知恵を、研究者だけでなく、多くの人と共有したい」というのが著者たちの願いだ。

 BOOKウォッチでは、感染症の歴史については、『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫)、『世界史を変えた13の病』(原書房)など、古代国家の王権をめぐっては『新版 古代天皇の誕生』(角川ソフィア文庫)、『皇子たちの悲劇――皇位継承の日本古代史』(角川選書)など、中国や朝鮮半島との関係については『鏡の古代史』 (角川選書)、『古代韓半島と倭国』 (中公叢書)、『戦争の日本古代史――好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)など、神社の由緒については『二十二社 朝廷が定めた格式ある神社22』(幻冬舎新書)などの関連書も紹介済みだ。

  • 書名 天変地異はどう語られてきたか
  • サブタイトル中国・日本・朝鮮・東南アジア
  • 監修・編集・著者名串田久治 編著、青野正明ほか 著
  • 出版社名東方書店
  • 出版年月日2020年2月12日
  • 定価本体2200円+税
  • 判型・ページ数四六判・296ページ
  • ISBN9784497220011
 

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