書籍の紹介をしていると、日本人の学者が実にいろいろなことを研究していることを知る。本書『戦後ドイツに響くユダヤの歌――イディッシュ民謡復興』(青弓社)もその一つだ。著者の阪井葉子さんは元・大阪大学大学院文学研究科助教。
「ドイツ」や「ユダヤ」に関心があっても、「イディッシュ民謡」と聞いて、何のことかすぐ分かる日本人は少ないだろう。かなりニッチなテーマだが、意外な発見もあった。
本書では大別して三つのことが印象に残った。一つは、タイトルにもなっている本書の主題に絡む部分だ。
戦後のドイツではユダヤの歌「イディッシュ民謡」を復興させようとする動きがあった。けん引したのはドイツの「60年代フォーク世代」だ。
「イディッシュ」とは、パレスチナを追われたユダヤ人が、ヨーロッパを放浪するうちに身に着けた言語だ。ヘブライ語に中世ドイツ語が混じったものだと言われる。中欧から東欧に散在するユダヤ人はこの言語を話し、ユダヤの教えを守ったという。彼らのことを「アシュケナジム」と称することは、高名なピアニストのアシュケナージがユダヤ系ということもあり、何となく知っている人もいるかもしれない。
戦後のドイツで復活したイディッシュの歌の中で、特に注目されたのはモルデハイ・ゲビルティグ(1877~1942)とヒルシュ・グリック(1922~44)の作品だ。
ゲビルティグは子守唄、恋愛歌などのほか、「燃えてる!」を残した。1938年、ポーランド人による「ポグロム」(ユダヤ人殺戮)をきっかけにつくられた歌で、「兄弟よ、火を消せ 燃えてるのはぼくらの町なんだから!」という歌詞は、ナチスによるホロコーストが始まると、抵抗歌として歌い継がれた。
もう一人のグリックは、若い詩人であり、ユダヤ人による反ナチの抵抗運動のメンバーでもあった。「反ナチ抵抗運動の讃歌」と呼ばれた歌「けっして言うな、これがおまえの最後の道だなどと」で知られた。
ゲビルティグはナチスの将校によって射殺された。グリックは強制収容所に送られたが、消息不明。44年に22歳で亡くなったことは、ほぼまちがいないという。
二人の歌が戦後のドイツで復活したのは、ナチスの過去を忘れようとする当時の西ドイツの社会風土に抗して、戦後に育った世代の若者の間で、ホロコーストの記憶を呼び覚ます歌を積極的に取り上げようとする動きが起きたからだ。米国の反戦フォークなどに刺激されたものだった。
以上からわかることは、反ナチ抵抗運動の一つに「歌」があったこと、その意義を戦後のドイツで再評価しようとする運動が、ドイツ人の一部から起きていたことだ。いずれも日本では見過されている事柄であり、その意味で本書のアプローチは新鮮だ。
ただ、いかんせんドイツの国内事情に深く関連する話だけに、日本人には縁遠い。そこで本書は導入部分で、日本人にもおなじみのユダヤルーツの歌も紹介している。その一つが「ドナドナ」だ。
この歌は1940年に、ニューヨークのミュージカルで歌われたのが最初だ。作詞家も作曲家も、ユダヤ系の移民。公演会場はユダヤ系の作品を上演する「イディッシュ劇場」だった。かわいい小牛が荷馬車に乗せられ売られるために市場に向かっていく。日本語の歌詞ではオブラートに包まれているが、英語やイディッシュ語ではもっと強烈で、「屠場」に送られる小牛の姿に「強制収容所」に移送されるユダヤ人の姿が二重写しになる。1960年代にジョーン・バエズが改めて取り上げたときも、「聞き手にそのように受け取るように期待した可能性が高い」と本書は指摘する。
さらに本書は「屋根の上のヴァイオリン弾き」も取り上げている。映画にもなり、日米でロングランになった人気ミュージカル。これは19世紀末に盛り上がった「イディッシュ文学」の名作『牛乳屋テヴィエ』が戯曲として改変されたものだという。ウクライナの小さな「シュテートル」(ユダヤ人の町)に暮らす敬虔なユダヤ教徒の物語。大ヒットしたミュージカルで主役のテヴィエ役を2000回以上も演じたのはユダヤ人の俳優・歌手のセオドア・ビケル(1924~2015)だ。
ウィーン生まれ、ナチスドイツのオーストリア併合でパレスチナに逃れ、のち英国で演劇を学ぶ。アメリカに渡った彼は、「マイ・フェア・レディ」など多数の映画に出演、ハリウッドの俳優組合の組合長もした。有名なフォークシンガー、ピート・シーガーとともにニューポート・フォーク・フェスティバルを立ち上げた人でもある。1959年、その第一回で衝撃的なデビューを飾ったのがジョーン・バエズだ。ここで偶然にも、ユダヤ人にまつわる「ドナドナ」と「屋根の上のヴァイオリン弾き」は歴史的に運命的な邂逅をしていたことになる。
マイナーなテーマだと思われた「イディッシュ」にまつわる話が、欧米社会で深い根っこを持ち、大きな花を咲かせている物語であることを認識できる。ビケルは「屋根の上のヴァイオリン弾き」をイディッシュ語でも上演しているという。
以上が本書で二つ目に印象に残ったことだ。
三つ目は著者の阪井葉子さんに関わる。「元・大阪大学大学院文学研究科助教」となっているのは、すでに2017年に亡くなられているからだ。13年に卵巣がんが見つかり、転移が進んでいた。大きな手術や化学療法の合間をぬって資料を読み、研究会に顔を出し、ドイツ現地調査などを続ける。積極的な治療が難しくなった2017年の春以降、しだいに体調が悪化していく中でも執筆作業は続き、最後の入院となった7月末からも、病院にパソコンを持ち込んでいた。データの最終変更は8月29日午前6時直前。その2時間後には意識がなくなり、同夜に死去した。
それから10日後、学生時代からの研究仲間で、28年間ともに過ごした夫の三谷研爾・大阪大学大学院文学研究科教授が残された原稿を読み始め、故人の思いをもとに著作として編集したのが本書だ。「阪井葉子の遺書である」と、三谷さんは書いている。
とはいえ本書は、未完の研究をもとにしているので、三谷さんは「著者にもっと長い時間が与えられていたなら、研究はさらに大規模なものになっただろうし、本書じたいまったく違った形態・内容をとったかもしれない」と付言している。
一つの大きな仕事を成し遂げようとしている研究者にとっては、心にしみる秘話ではないだろうか。二人と学生時代の同級生だった音楽学者の伊東信宏・大阪大学文学研究科教授が「解題」を書いている。
BOOKウォッチではイスラエルの気鋭の学者が戦前の日本を分析した『暴走する日本軍兵士――帝国を崩壊させた明治維新の「バグ」』(朝日新聞出版)、ユダヤ系の学者がイスラエルを批判した『イスラエルに関する十の神話』(法政大学出版局)なども紹介している。
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