元プロ野球選手で野球解説者の江本孟紀さん(70)は、阪神時代の1981年に、すっかり有名になったフレーズ「ベンチがアホ」の一言で引退にするハメになったことで知られる。直情径行は、高知県生まれに共通するものらしいが、江本さんはそのせいもあって、希望していたプロ入りも遠回りすることになったことを最新刊『野球バカは死なず』(文藝春秋)で明かしている。
プロ入りできたのは、選手枠に偶然空きができた東映(現日本ハム)に声をかけられてのことだったが、その後の成功への道を拓いてくれたのは、当時の同球団の中心選手の一人、張本勲さんのおかげだったことを本書で述懐。いまはテレビ番組のご意見番としておなじみになっている張本さんだが、江本さんにとっては「大恩人の一人」であり、あっぱれな存在だったという。
江本さんはプロ入り後、東映、南海(現ソフトバンク)、阪神と渡り歩いたが、成功のきっかけは、野村克也監督に「見出された」南海時代があってこそとみられていた。ところが本書で明かされた本人の弁によれば「投手・江本」が名を残せたのは、新人時代の1年だけ過ごした東映での経験が大きく影響しているという。
社会人野球の熊谷組でそれなりの成績を残した1970年、ドラフト会議での指名を期待したが声がかからず途方にくれていた江本さん。実はロッテから誘いがあったのだが当時の同チームにはエース球の投手が「ゴロゴロ」といて、とても出番が回ってきそうもないと断っていた。投手力の弱い球団を狙ってテスト入団を考えていたのだが、次の年1月下旬になって、東映から勧誘話が舞い込んだ。こちらなら即戦力としてイケそうとみて二つ返事で飛びついたという。
契約したときは既にチーム春のキャンプイン。サインしたその場で背番号「49」のユニホームをバッグに詰めて、当時のキャンプ地、静岡・伊東に向かった。
宿舎に到着してしばらくするとなぜか張本さんから呼び出しをうける。ケンカぱやかった高校時代の江本さんを知る選手らから評判を聞いてのことらしい。深々とお辞儀をしながら張本さんの部屋に入る著者。張本さんは、監督の部屋より広い部屋に一人、座布団を何枚も重ねた上にあぐらをかき「まさに牢名主のよう」だった。いくつかの教訓的な話を聞かされ解放。帰りには部屋にあった菓子を抱えるほど持たされたという。張本さんに呼び出され、菓子を持たされ帰されるなど例がなかったという。
張本さんは練習でも江本さんをしっかりリードしてくれた。フリーバッティングでの登板。まず大杉勝男さん、白仁天さんら主力相手に投げたものだが調整不足でストライクが入らない。列火のごとく怒る両選手。「バカ野郎!」とバットを投げつけられるしまつ。張本さんへの1球目もやはりストライクが入らない...、が、張本さんはバット出して打ち返す。以降もバットが届く範囲のボールはことごとく弾き返してくれたものだ。
江本さんはこの張本さん無言の指導のおかげで自信を回復。キャンプを順調に過ごし開幕一軍を果たすことができたという。
「俺はこの年入団した中では、100人いたら100番目の選手だ。ドラフト外として、最後の最後にプロ入りしたルーキーが、開幕一軍に食い込むことができたのも、あのフリー打撃があったから。これはすべて張本さんのおかげ。間違いなく大恩人の一人だ」
江本さんはこの東映時代の経験から、張本さんに「自分と共にみんなを生かせる人」「まちがいなく『超一流』の人」「いままでの野球人生のなかで、こんな凄い人はいなかった」と、最大級の賛辞を送っている。
江本さんは今年1月に開かれた旭日中綬章受章祝賀会で、自身のスキルス胃がんを告白して出席者らを驚かせた。昨年、診断を受けたその場で手術を受けて回復。そうした経験から、本書を遺書にもたとえている。手術と前後して、回顧録のオファーがあり、病名を告げられたときのショックで次々によみがえってきた出来事を書きとめようと考えたという。
甲子園出場が部員の不祥事で土壇場でひっくり返った高知商時代の悲劇的経験、長嶋茂雄さんにあこがれ立教大進学をめざし内定を得ながら入学ができなくなるどんでん返し、そこへ救いの手が差し伸べられたように開かれた法政大へ道、そこで経験した、いまなら即告発対象になりそうなハラスメント的しごき...。もちろん「ベンチがアホ」の真相も明かされている。さらに参院議員としての政界見聞録など多彩だが、張本さんを「恩人」と考えるようになったエピソードは意外で興味深い。
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