弊社ジェイ・キャストは東京・四谷にあり、線路をはさんで立地する学習院初等科のかわいらしい生徒を見かけることも多い。天皇陛下をはじめとして、やんごとなき方々が通った学園への興味がつのり手にしたのが本書『学習院』(文春新書)だ。戦前、華族のための学校として学習院が作られたことは知っていたが、「今上陛下は学習院大学を中退していた」など、興味深いエピソードが満載だ。少しミステリアスに感じていた学校の実像が見えてきた。
著者の浅見雅男さんは出版社に勤めるかたわら近現代史の研究、執筆に取り組み、著書に『公爵家の娘』『華族誕生』『不思議な宮さま』などがある皇族・華族研究家。
「はじめに」を東条英機が学習院初等科を中退していた事実から書き出している。東条の父は当時、陸軍少佐。もちろん華族でもなく上流階級にも属してない。浅見さんは軍人の子弟を学習院に入れることで、学習院で学ぶ華族の子弟に尚武の気風を盛り上げ、軍人への道を切り拓こうとしたのでは、と考える。しかし、東条は1年ちょっとで中退した。学校になじめなかったのは「身分」の問題のせいだったかもしれないと推理する。
事実、戦前において男子皇族のほとんどは中等科の段階で軍学校へ転校、女子は結婚のため中退したという。大日本帝国憲法下においては、天皇は「大日本帝国陸海軍の大元帥」であり、皇族男子は大元帥の最も信頼できる補佐役として、皇室身分令によって、武官になることが義務付けられていた。後年、歴史学者になった三笠宮も、『古代オリエントと私』著書のなかで、戦前、学習院から陸士に進むことになった理由として、そのことに触れている。軍隊と皇族、華族の関係は深いのだ。先日結婚式を挙げたイギリスのヘンリー王子も軍服、制帽で式に臨んでいた。ノブレス・オブリージュ、つまり高貴な人ほど義務を果たさなければいけない。兵役こそもっとも大切な英国王室の義務なのだ。
明治10年、華族学校として誕生。戦前、皇族、華族のために運営されてきた学習院を運営してきたのは宮内省だ。敗戦により、いち私立学校として再スタートを切る。宮内省管轄でなくなり、財政的に皇室に依存しなくなっても皇族は戦前同様、学習院で学んだ。先に書いたように、戦前は軍学校への進学のため中等科までで学習院とのつながりがなくなった男子皇族だが、戦後は小・中・高・大学と十数年、学習院で学ぶようになり、かえって皇族と学習院のつながりは深くなったかのように思えた。
そうした中で、ちょっとした「異変」が起こる。学習院大学政治経済学部2年生だった今上天皇(明仁親王、当時皇太子)は、昭和28年、天皇の名代としてエリザベス二世の戴冠式に参列するため英国に渡った。半年にわたる外遊となったため単位不足のため3年に進級できなくなったのだ。皇太子の特別扱いに強硬に反対した学生や教授(有名なのが清水幾太郎氏)がいたからだ。かくして明仁親王は大学を中退、以後は聴講生として学ぶことになった。
父昭和天皇、祖父大正天皇も学習院を中退しているが、それは「御学問所」で帝王学を修めるためだった。単位不足で中退を余儀なくされたところに、戦後が垣間見える。今上天皇の学習院高等科時代については、「御学友」だった作家の藤島泰輔氏が『孤獨の人』で書いており、映画にもなった。有名な「銀ブラ事件」などもリアルに描かれ、昭和20年代の学習院の新しい息吹を知ることができる。
戦後の学習院については、「もはや昔の学習院ではない」と、こだわりを持たない皇族関係者もいたようだ。母が皇族だった北風倚子さんは、著書『朝香宮家に生まれて』の中で、母のそうした考えを記し、別の学校に行ったと書いている。
現在の親王らが学習院に必ずしもこだわらず、他の学校で学んでいることはよく知られる。もっとも象徴的なのは秋篠宮家の悠仁親王がお茶の水女子大付属幼稚園に入園し、そのまま同大付属小学校に進学したことだ。変わる皇族と学習院との関係には今後も尽きない興味がわく。
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