日本には様々な分野でたくさんの評論家がいる。良し悪しを判断する基準のひとつに、その人が信用できそうかどうかということがあるような気がする。
長年、映画評論家として活躍する佐藤忠男さん(1930~)は批評文からにじみ出る人間性に信頼感があり、支持者が多いことで知られる。本書『独学でよかった』はそんな佐藤さんが「読書と人生」を振り返ったものだ。2007年にチクマ秀版社から出版され、その後、14年に三交社から改めて出ている。
作家には立派な学歴がない人が少なくないが、一般に評論家は高学歴者が多い。そういうなかにあって佐藤さんは、「最終学歴は工業高校の定時制」という異色の一人だ。
1930年に新潟市の信濃川河口に近い工場街で生まれ育った。実家は漁師に漁具や船具を売っていた商家。大酒のみだった父は、末っ子の佐藤さんが3歳のときに脳溢血で亡くなった。母は女手一つで家業を継いで9人の子供を育てた。
父は聖書を一冊残しただけ、母はおそらく生涯で一度も書店で本を買ったことがなかったのではないか、という本と無縁な一家だった。なぜか佐藤さんは子どもの時から本好きで、6歳にして初めて一人で30分歩いて街中の本屋に出かけていたほど。病弱だった兄の代わりに貸本屋に通ううちに、自分も本の世界がさらに身近になり、毎日のように少年向けの冒険小説や時代小説を乱読した。
佐藤さんの人生で、大きな転機になったのは、戦争中の中学受験だ。何人かの同級生と一緒に受けたのだが、1人だけ不合格になる。後で漏れ聞いたところによると、校長が大変な愛国者で、試験前に訓辞して明治天皇の御製を朗読した時、頭を下げることを忘れていたことが響いたというのだ。ならば、オレの方が愛国者だ、と海軍の少年飛行生になったが、ほどなく戦争が終わる。
戦後の佐藤さんに衝撃を与えたのは「真相はこうだ」というラジオ番組。日本軍が戦争中にやっていたことが次々と暴露されていた。南京大虐殺とかバターン死の行進とか。もう一つは、解禁されたアメリカ映画。戦時中はいっぱしの軍国少年飛行兵だったが、民主主義に急旋回していく。17歳のころには将来、シナリオライターになりたいと思うほど、映画にのめり込んでいた。
鉄道教習所に入り、国鉄に就職したが、リストラでクビになり、職安通い。やがて電電公社の臨時工に。何とか生活が安定し、定時制にも通う。読書は通俗小説から、古典や教養分野へと広がっていく。
そのかたわら映画雑誌に投稿するようになっていた佐藤さんに大きな影響を与えたのは、評論家の鶴見俊輔さんだった。すでに映画雑誌で鶴見論文に好感を抱いていた佐藤さんは、書店でたまたま手にした雑誌「思想の科学」の中心人物が鶴見さんだと知って、同誌にも投稿するようになる。54年8月号に採用された「任侠映画について」が「独創的」と注目され、のちに「映画評論」「思想の科学」編集長をつとめ、100冊以上の本を書く文筆人生につながっていく。
鶴見さんは名門の出身で、戦前にハーバードで学んだ超エリート。佐藤さんとは真逆の経歴だが、共通点もある。佐藤さんは鶴見さんのことを「善意な人柄」と書いている。それは佐藤さんにもいえるのではないか。
本書の中で、ちょっと笑ってしまうのは、高名な評論家小林秀雄氏に言及したくだりだ。小林氏は評論家業界の頂点に君臨している人なので、一般に、小林氏を批判する評論家はいない。だが、「独学」の佐藤氏は意に介さない。
「小林秀雄の文章というのは確かに非常に高く評価する人も多いが、それがぜんぜんピンとこないからといって自分の頭が悪いのだと悩む必要はぜんぜんないものである」。
「なぜならそれは基本的に作者の直観で書かれているものであって、誰もが納得しないわけにはゆかない筋道だった言葉で説かれているものではないからである」。「小林秀雄と同じような気質と同傾向の教養の持主の間でだけ、以心伝心で通じ合えることを、あたかも誰もがそう感じるはずだと断定して書いているので、違う気質と違う種類の教養の持主にとってはチンプンカンプンで当たり前なのである」。
別の著書でも、そんな風なことを書いていたら、たまたまパーティで会った、ある県の部長級の人から話しかけられ感謝されたという。高校時代に小林秀雄を読んでもさっぱりわからず、頭が悪いと悲観していたのですが、佐藤さんの文章を読んで助かった、命の恩人です、と。
エリートが作る業界の序列とは無関係な所で生きてきた佐藤氏らしいエピソードだ。
本書の巻末には「独学派にすすめる99冊」がジャンル別に、佐藤さんのミニ解説付きで掲載されている。「独学」でどんな本を読み「独創性」が形成されたか、知の見取り図がわかり、参考になる。
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