日大が大揺れだ。半世紀前ならもっと大変なことになっていたかもしれない。そう思いながら『日大全共闘1968叛乱のクロニクル』(白順社)を手に取る。偶然とはいえ、実にタイムリーな出版だ。
学生運動史上、最大・最強を謳われた日大全共闘。中でも戦闘的と言われたのが芸術学部闘争委員会だ。その芸闘委委員長が50年を経て、鮮烈に駆け抜けた怒涛の時代を振り返るというのが本書のうたい文句。著書の眞武善行さんは1948年生まれ。
日大はマンモス大学だから、あちこちに学部が散らばっている。眞武さんが闘争に関わるきっかけは1968年5月24日の、読売新聞の小さな記事だった。
「日大生がデモ」――日大の20億円に上るとされた巨額脱税事件の責任を追及しようと、千代田区神田にある経済学部で学生たちが集会を開き、約400人デモをしたというのだ。「日大生のデモはここ数年なかったこと」と書き添えられていた。
眞武さんは当時まだ19歳。練馬区江古田にある芸術学部映画学科の2年生になったばかりだった。その新聞記事を見て、とりあえず神田三崎町の経済学部まで行ってみた。白山通りから一本入ったところにある校舎の前にすでに多数の学生たちが集まっている。あとでそこが法学部三号館だと知った。やがてデモの隊列が組まれ、動き出す。そこで顔見知りの芸術学部の学生を見つけ、互いに笑顔になった。
眞武さんの闘争初体験は、翌25日の朝日新聞で「学生約700人が無届集会、デモ行進」と報じられた。日々、確実に参加者が増え、闘争はあっというまに各学部に拡大し、眞武さんは「引き返すことができない」人生に足を踏み入れることになる。
本書は、19歳だった眞武さんの闘争初体験から始まり、「第1部 自由を求めて」「第2部 バリケードに抱かれて」「第3部 それからの日大全共闘」とクロニクル風に日大闘争と関わった人たちの動きが記される。巻頭には多数のモノクロ写真も掲載され、当時の熱気をほうふつさせる。
日大では68年5月27日に全共闘が結成される。明日で結成50周年だ。7月には東大でも全共闘、さらに各大学でも全共闘や全闘委が結成された。日大の発火点になったのは不正経理だったが、東大は医学部の処分問題。きっかけは大学によってまちまちだったが、69年にかけて、京都大など主要国立大、明治大、早稲田大、法政大、慶応大、中央大、同志社大など主要私立大は軒並み闘争状態になり、大半が校舎の一部がバリケード封鎖されるという異常事態となった。
69年9月には全国全共闘も結成されたが、そもそも統一的な指導部があったわけではなく、大学ごとの事情もさまざま。ベトナム反戦、という世界的な機運があったとはいえ、今となっては、どうして燎原の火のように運動がひろがったのか、当事者でさえもわからない、というのが全共闘運動かもしれない。
あれから半世紀、その後も労働運動を続けてきた著者はこう記す。「ベトナム反戦運動が盛り上がり、日大・東大闘争など学生叛乱が全国で起こった一九六八年は、社会に自由の風が吹き抜ける、実に風通しのいい時代であったことは確かだろう」。
そして「大森千穂・女性・大阪市・43歳・主婦」という人が『シルバー川柳』(ポプラ社)に投稿した
「こないだ」と
五十年前の
話する
という川柳を引用しながら、「私の日大闘争の思い出話も、そんなものだろう」とつぶやく。だが、こうも強調する。
「東大の学生は『自己否定』と言った。それは、流行の言葉にもなった。しかし、日大生は全く逆の感覚だった。たたかいに立ち上がったとき、自己を回復したのである。大学の管理と右翼支配のもと、下を向いていた日大生が自己主張し、はじめて『自己肯定』した、そういうたたかいだった。だからたたかいが、喜びであった。それは、素晴らしく楽しい日々だった」
昨今の日大の迷走ぶりを、眞武さんはどんな思いで見つめているだろうか。あるいは今の日大生は、どんな思いでこの本を手に取るのだろうか。
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