ある本の著者について、どういう人なのかを調べているうちに別の面白い本に出合うことがある。吉永小百合さんの『私が愛した映画たち』(集英社新書)の取材・構成をした共同通信記者、立花珠樹さんの類書をチェックしていたら本書にたどり着いた。
『ちょっと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』(有楽出版社)。立花さんら様々なジャンルの35人が、「アングラの女王」などとも言われた浅川さんのことを語っている。上野千鶴子、加藤登紀子、小椋佳、山下洋輔、長谷川きよしさんなどのほか、研ナオコ、美樹克彦、吉田類さんら意外な人物も登場してなかなか興味深い。
浅川マキってだれなの?という人も多いことだろう。本書の末尾に掲載されているプロフィールによれば、本名・森本悦子。1942年、石川県美川町に生まれ、金沢二水高校を卒業後、美川町役場に勤める。62年に夜行列車で家出同然に上京し、ゴスペル、ブルース・シンガーとして米軍キャンプやキャバレーなどで歌活動。68年12月、寺山修司の構成演出で新宿のアンダーグラウンド・シアター「蠍座」で3日間の深夜ワンマン公演をして成功を収める...。
テレビには出ない歌手だったが、「かもめ」「夜が明けたら」「ちっちゃな時から」などの曲がじわじわヒットし、70年9月にリリースしたアルバム「浅川マキの世界」は5年がかりで25万枚も売れた。長い時間かけて売れる作品をロングテールというが、そのはしりになったという。浅川さんが訳した「朝日の当たる家」は、ちあきなおみさんも歌っている。Youtubeで見て、ゾクッとした人も少なくないはずだ。浅川さんは生涯で29枚のアルバム及び編集アルバムDARKNESS(Ⅰ~Ⅳ)を発表したが、2010年1月17日、名古屋公演最終日にホテルで急逝した。
本書は二部構成になっている。第一部は雑誌「遊歩人」(07年7月号から09年9月号)に連載された浅川さんについて22人のエッセイ。第二部は、浅川さんが亡くなってから13人が一文を寄せている。「神田川」などの作詞家として知られる喜多條忠さんが全体の責任編集者となっている。
喜多條さんが浅川さんを知ったのは「蠍座」公演の1年ほど前のことだ。銀座の松坂屋の近くにあった「銀巴里」というシャンソン喫茶の前を通りかかると、本日の出演予定に「丸山明宏(いまの美輪明宏)」とあった。思わず入ったら、前座で歌っていたのが浅川さんだった。その後も銀巴里に通って親しくなる。たまり場になっていた参宮橋の部屋にも顔を出すようになった。そのころ出入りしていた一人に、「東大の神田君」、のちの小椋佳さんもいたという。
その小椋さんは、今でも無意識のうちに口ずさむ歌として、浅川さん作詞の「ちっちゃな時から」を挙げる。「初めて自作の詩曲を渡しに行った歌い手さんが他でもない浅川マキさんだったのです」と書いている。
同じく有名どころでは加藤登紀子さんも思い出を語る。「シャンソン界からも歌謡界からも、孤立無援の気持ちでいた私にとっては、唯一の相談相手。プログラムの選曲、衣装、曲間のコメント、化粧まで、彼女の目配りは完璧だった」。
研ナオコさんはライブでひそかに浅川さんの歌を歌っていると明かしている。アイドル歌手だった美樹克彦さんは「浅川マキほど異彩を放ち、心の中に棲みついたアーティストはほかにいませんでした・・・ずっと会いたかったひとで...会えなかったひとなんです」。
冒頭の立花さんが、浅川マキさんの歌と出合ったのは、70年ごろの学生時代。仕送りを止められ、肉体労働などのバイトでその日暮らしをしていた。苦い記憶の中の日々を振り返りつつ、「浅川マキは、存在そのものがあの時代と重なっている」と記している。
浅川さんとは特に親密で、プロデューサーとして深く関わった寺本幸司さんも長い一文を書いており、寺山修司とのつながりなどの裏話などをつづっている。寄稿している安西水丸さんや平岡正明さんはその後、亡くなった。単に一人の歌手の追悼集にとどまらない、時代の闇の部分の証言録としても貴重だ。
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